春のおわり

「たとえばの話、」
 と、なまえがささやく声を風間は黙ってきいていた。三月の終わり、夜はまだすこし冷える。うすらさむさが背筋をかけのぼった。もう一枚なにか上着を着てくるべきだった、と、そんな会話が大して広がらず投げ捨てられたあとのささやきだった。ふたりで歩きながらも、もはや手を繋いで熱をわかつほど近しくはない。
「風間くんがボーダーに入ってなかったら、いろいろ違ってたと思うんだ」
「……そうだな」
 静かに頷いた。ちらりと伺った横顔はすっと前を向いて、こちらを見ようともしていなかった。蒼也くん。まだ陽が昇っていたときは、なまえは風間のことをそう呼んでいた。
「たとえば、風間くんがボーダーに入ってなかったら、わたしは警報音のたびにいやなかんじに心臓が軋むこともなかったし、行き先も教えてもらえずに長いこと会えなくなることもなくて、なんにも考えずに幸せでいれたと、思うんだ」
 すん、なまえが鼻を鳴らす。花粉症のせいで春はいつも涙や鼻水がとまらないと言っていたけれど、そういうことではないのだと思いたかった。
「でもね、わたしはね」
 ざかっ、とアスファルトと靴底が擦れる。ちょうど街灯のしたで立ち止まったなまえは、やはり風間のほうを見なかった。夜にこの灯りのしたはあまりにもまばゆくて、そっと目を細める。
「ボーダーのことで、たのしそうな風間くんのことが、ほんとうに大好きだったの」
 だいすき、だったの。繰り返されることばがいとしい。いとしかった。もう何もかも終わってしまうけれど。
「……ありがとう」
 もう散々謝ったあとだった。風間のことばになまえがようやく顔をむけて、へにゃりと笑う。あかく腫れた目元がじわりと滲んだ。


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