芝生は青く花は赤く
彼女の横顔を、きれいだと思った。
そんなつもりは少しもなかったのに。唐沢にとって彼女は信頼する部下のひとりで、柔和な物腰と丁寧な仕事を好ましく思っていてもそれはそれだけだった。かわいい部下だけど、ひとりの女性として見たことはただの一度もなかった、はずだ。
火花が弾けるような、熱のこもった瞳がじっと遠くを――彼を、見つめている。くちびるはきゅっと閉じたまま、いつもの穏やかな笑みを浮かべる余裕もないらしい。呼吸さえも憚るような静寂に、彼女が彼に向けるすべてが滲んでいた。
芝生は青く、花は赤いというけれど。それにしたってきれいな横顔だった。
「――お疲れ様」
ゆっくりと紡いだ声は、唐沢らしくいつも通りだ。
華奢な肩が揺れる。瞳に集った熱が驚いたようなまばたきに散って、火の粉は頬をなぶる。声をかけられてやっと上司の存在に気付いたのだろう。かちり、と目が合った。
「かっ、唐沢さん! お疲れさま、です」
慌てて居住まいを正す彼女に、俺がここに来るのはそんなに驚くことかい、と訊ねてみたくなった。訊くまでもなくそうだろう。いつも外回りか上層部の会議かで、自陣であるはずの営業室にいることは多くない。だから、ほんとうに偶然だった。彼女と彼が揃う空間に立ち入ったのは。
「あの、先ほど、城戸司令がいらして」
知っている。長い廊下の果てからも、城戸正宗という男の存在は際立っていた。唐沢が営業室に辿り着く前に城戸は去り、後には彼女の横顔が残った。思わず見惚れた火花だけが。
「何か仰っていた?」
渉外を担う営業室は、機密を抱えた上層部からも、前線を預かる子どもたちの領域からも離れている。最高司令官である城戸が本部のどこにいようと不可解ではないが、用件があったと考えるのが妥当だろう。喫緊の議題は思い当たらないけれど。
「いえ、わたしにはご挨拶だけで……唐沢部長を探していらしたのかもしれません」
「入れ違いだったか」
「そうみたいですね」
彼女の声はいつもと同じに穏やかだった。そっとつくられた笑みもおおよそ完璧で非の打ち所がない。けれど唐沢は、もう見てしまった。彼女の横顔を。城戸に捧げられたひたむきな瞳を。呼吸を忘れたくちびるの、その柔い輪郭と赤さを。
――欲しい、と思ってしまった。
城戸を見つめる彼女の横顔があんまりきれいだったから。ただそれだけで。きみは部下のひとりでしかなかったはずなのに。恋と呼ぶには始末が悪く、なのにどうにも、そういうことらしかった。
「……困ったな」
「お心当たりが? その、城戸司令のご用件の」
遠慮がちな瞳が唐沢を見上げていた。その視線に火花が散るような焦燥はない。信頼はあっても、部下が上司に向ける以上のものではないだろう。これから先もきっとそうで、ただ彼女の瞳の奥に向けられることのない熱があるだけだ。
「どうだろうね」
囁くような声がぽつりとおちる。曖昧な返答が珍しかったのか、彼女は不思議そうに小首を傾げていた。
衝動を抑えられないほど子どもではない。感情を統制することには慣れている。だから燻った肺を抱えたまま過ごすことも簡単だった。何も変わらない。表面的には。彼女はかわいい部下のままで、でもやっぱり、彼を見る瞳は熱かった。
「今まで、貰ってうれしかったものってありますか?」
一駅を過ぎ、引き継ぎの最終確認も終えて会話が途切れたころ、彼女がぽつりと呟いた。
新幹線の二列シートに並んで座ると意外なほど距離が近い。唐沢のからだが大きいせいもあるのだろう。離れた席を取るべきだったかな、と睫毛の長さを見ながら考える。
「貰って嬉しかったもの?」
「はい。……あの、男のひとって、どういうものをプレゼントされたらうれしいのかな、と、おもい、まして……」
すみません、雑談です。
頬を赤く染めた彼女が窓の外に目を向ける。八月の空は青く、彼女は少しだけ眩そうに目を細めた。長閑な田園風景が次々に流れていく。焦げつく陽射しさえ忘れそうなほど車両は涼しかった。窓際の席を譲ったのは廊下側の出やすさが好きだからだ。それから乗り物酔いをしやすいと前に言っていたから。
「嬉しかったプレゼント、ね」
――ああ、そういえばそろそろ城戸さんの誕生日か。
どんなに些細な情報もそれが話の種になるのならいつでも引き出せる。気付かなきゃいいのに。込み上げたものを微笑に変えた。
プレゼントと言うからには御中元や御歳暮はノーカウントだろう。つい先日贈られてきた西瓜や桃は営業室のみならず広報や開発室にも好評だったけれど、そういうことではない。これまでの人生で異性から物を贈られることも少なくなかったが、転職してからは断ってばかりだ。唐沢個人のことといえど、付け入る隙を与えられるほど安定した組織ではない。
「……頭痛薬」
「えっ」
「それからペットボトルの水、使い捨てカイロ、ラムネ、かな」
指折り数えながら囁いた。彼女はきょとりとした瞳で唐沢を見上げる。ふ、とくちびるを緩めれば少しだけ眉が寄った。逡巡するように瞼が伏せられる。
「……それ、前に、わたしが差し上げたものですよね? ご気分が悪そうだったから」
あの日はひどい二日酔いだった。仕事中は理性が働くのか醜態を晒さずにいられたが、安心したのもほんの束の間。昼食をとって気が緩んだ隙を狙っていたかのように、頭痛は容赦なく襲ってきた。ずきずきがんがんと内側から響く音に寒気がひたりと忍び寄り――『大丈夫ですか』と柔らかく差し込まれた声が思考を掬い上げた。
「きみが女神に見えたよ」
「それなら良かったんですけど、あの、もっとなんていうか……」
「もっと?」
意地悪く訊ねた自覚はあった。もちろん彼女が欲しかった答えがこれでないことは承知している。いくらあっても構わないネクタイ、それからカフスやネクタイピンなんかは外れが少ないこととか。靴はもちろんシャツも細かな着心地が気になること、革製品を贈るなら小物に留めておくこと、だとか。求められているのはそういうアドバイスだ。
「もっとこう……わ、わかりますよね?」
「わからないな。疎いんだよ、俺は」
「ここまで白々しい嘘を吐かれたのは初めてです」
表情を難しくした彼女が拗ねたように顔を逸らす。隣り合う座席に逃げ場はなく、トンネルに入れば窓に映って隠した表情も暴けてしまうのに。一瞬だけ耳が塞がれたような感覚があって、ガラス越しに彼女と目が合う。ぱちり、瞳が瞬いた。
「……なんですか」
「べつに?」
くっ、と喉に笑みが引っかかる。不満が滲んだ、少しだけ幼い顔だった。唐沢の前では笑みに覆われてばかりのそれは、あの横顔とも少し違う。
「……どうして笑うんですか?」
「……笑ってないよ」
「笑ってるじゃないですか!」
向き直った彼女のくちびるから非難が飛ぶ。ひそめられた声音は周りに配慮してのことだろう。この部下は生真面目な性格なのだ。
「いや、長いね、ここのトンネルは」
あからさまに話を逸らせば「ここはすぐだと思います」と応える。ほら、そういうところがさ。胸の内におちた声は笑っているが、表情には出さない。
滑らかに線路を辿る車両がトンネルを抜けたのは本当にすぐのことだった。明るい夏のひかりが車内に差し込む。三列シートの方からカーテンを引く音がした。彼女が身動いで、座席からかすかに軋んだ音がする。
「……逆に、貰って困ったものはありますか」
「プレゼントなんてその気持ちが嬉しいんじゃないか」
「そういう建前はともかくとして」
健気だなぁ、と見上げる瞳を覗きこむ。上司と部下とは言えど、ボーダーでは同期だ。年齢差はあっても困難を共に乗り越えてきただけの信頼と気安さがある。おそらく彼には向けられないものだ。唐沢だけが、知っている彼女だ。
力になってやりたい、それはなけなしの上司としての気持ちだろうか。それとも。この姿勢をかわいいと思ったのは、いったいどの立場の自分なのか。
「心配しなくても、きみなら相手が困るようなものは選ばない」
「でも人によってなにが不快かは違うので、」
言いかけてくちびるが閉じる。気まずそうな顔に免じて、それじゃあ尚更のこと俺に訊いたって仕方ないだろう、と言うのはやめた。
貰って嬉しいものも嫌なものも人による。だけど本当のところ、別に何でもいいと思っていた。高価なものも、拙い手作りの品も、身を投げ打つような献身も、唐沢の心にそう長く残ったことはないから。
たぶん、彼女は訊き方を間違えている。どんなプレゼントを贈ったときが喜ばれたか、とか。唐沢はそっちの方が得意だ。
「……手詰まりですね」
「諦めるのが早いなあ」
「唐沢さんが真面目に答えてくれないから」
「雑談です、って言ったのはきみじゃないか。相談って言ってくれたらもうすこし考えるよ」
「……そ、相談なのですが、」
「はいはい」
肩を竦めるにはスペースが足りなかった。滲んだ笑みに気付いているだろうに、彼女はくっと瞳に力を入れて唐沢を見つめるに留めた。
「貰ってうれしいプレゼントは、なんですか」
俺に贈るつもりはないくせにその訊き方はずるいな。言ってやろうか悩みつつ、あなただけがたよりです、と語るような瞳に息を吐く。
ネクタイ、マフラー、コートにベルト、キーケース、財布も腕時計も、あとは口紅を引いたくちびる、やわらかな肌を抱いて眠る権利。手元に残っているのは一つもない。それらを捨てることへの躊躇いは、もしかしたらあったかもしれないが、後悔にはならなかった。
灼きつくほどに残ったのは彼女の瞳に宿る熱と、あとはそうだ――あのときの。
『私には君が必要だ』
額に傷を負った男が言った、その一言。天地がひっくり返るような混乱の中、彼は少しも揺らいでいなかった。鈍く光る眼差しは銃口にも似て、差し出された手のひらは冷たかった。
「――手袋なんかいいかもね」
「手袋ですか?」
盆を過ぎたとはいえまだ暑い盛りだ。季節はずれの防寒具に彼女は不思議そうな声をあげる。
「城戸司令は手が冷たいから」
彼女はおおきく目を開いたかと思うと、「は、えっ、」と意味のない音をいくつか溢した。それと同時に頬が火照る。熱にあてられたのかふわりと甘いにおいが立った。昔の恋人が使っていた香水に似ている。
「ははは」
「……なんでわらうんですか」
「なんでだと思う?」
「……もういいです」
ふい、と視線が外れる。何でもないように小さな車窓から流れる景色を覗き、けれどその耳はまだ赤い。その幼気な赤が、やっぱり欲しかった。指先でなぞって痺れるような熱を知りたいと思う。
「だめだとおもいますか」
ぽつりとおちた声に、「いいや」とだけ返す。その熱の是非を問うのは唐沢ではなかった。
城戸の誕生日にウイスキーを贈るのは毎年の習慣だ。きっかけは他愛もない雑談だった。たまたま映画が好きだと知って、ゴッドファーザーが似合いますねと言ったら心なしか嬉しそうな顔をしていたから。昔からの重厚感のある銘柄が好みらしいこともその会話で引き出した。
『祝われるような歳ではないが』
初めて贈ったときの少しだけ困惑した顔が意外で、面白かったのもある。誕生日祝いを贈ることに全く他意がなかったとは言えないけれど、大部分は純粋な厚意が占めていた。多忙を極める男が、ショットグラスを片手にほんのひと時でも気を緩めることができたなら――それは唐沢にとってもそう悪くないと思えたのだ。
「ただいま戻りました―……唐沢さん?」
柔らかな声に書類から顔を上げる。珍しく自分のデスクに座っている唐沢に驚いたのか、彼女はぱちくりと瞳を瞬かせた。
「俺が渡したことになってたけど」
挨拶も省いてそう告げれば、彼女は笑みを固めてぎくりと肩を揺らした。
「えっと、その」
そろり、と逸らされた視線が全てを物語る。はぁ、と大仰に溜息を吐いて見せた。
「す、すみません」肩を縮こまらせて呟く声は羞らいを含む。
――出張が入ったんだ。きみから渡しておいてくれないか。
木箱に納められたウイスキーを預けてそう頼んだのは、もちろん彼女が城戸へ自然な形でプレゼントを贈れるようにという計らいだった。下半期の初日に出張を入れるのもどうかと思うが、大口のスポンサーがそれを望んだのだから仕方ない。
だと言うのに。定例の会議を終えた唐沢に城戸は告げたのである。
『今年もありがとう。手袋つきとは驚いたが』
ほんの少しだけ口角を持ち上げて、城戸は間違いなく唐沢に向けて礼を言った。買った覚えのない、けれど心当たりはとてもある手袋というものに対して。
「せっかく華をもたせてあげたのに」
「う、」
じわじわと逆上せてきた頬から逃れるように書類へ視線を落とす。
「俺の手柄にしていいのかい」
からかうように囁いた。彼女がどんな手袋を贈ったのかは知らないが、季節外れの贈り物だ。限られた品揃えから納得のいくものを探すのは骨が折れただろう。城戸からの礼もあの笑みも、唐沢が受け取るべきものではなかった。頬
「あの……城戸司令は、喜んで、いらっしゃいましたか」
「うん」
「それなら、いいんです。城戸司令が……、あのひとが、少しでも笑ってくれたら――それでいいんです」
一度目は言い聞かせるように、二度目は高らかに謳うように。彼女は告げて、見上げればやさしい笑みがある。
その瞳には熱があった。ちかちかと火花の散るそれは、けれど唐沢に向けられたものではない。だからか、やっぱりきれいだった。
彼女がどういう経緯でボーダーに入ったのかも、その熱を生む火種のことも。彼女と城戸の間にあるものを、唐沢は何一つとして知らなかった。部外者なのだ。何をしようとも。そして部外者だからこそ好き勝手にできる。
「まあ、きみの見立てだとは言っておいたよ。着け心地がいい、ありがとうと伝えてくれってさ」
「な、なんでそんなこと言うんですか!」
身を乗り出した彼女にちょっとだけびっくりして、手元で書類が悲鳴をあげた。くっ、と笑みが漏れる。そんなに必死にならなくても。城戸の笑みが深まったことはしばらく内緒にしておこうと思った。ご不満のようだから。
「余計なお世話だったかな」
「そっそれは……、唐沢さんは、なんでその……お世話をしてくれるんです?」
「さあ、どうしてだろうね」
上司と部下だから。界境防衛機関ボーダーという職場で同じ時間を過ごした同僚だから。きみの横顔をきれいだとおもったから。はたまた惚れた弱みってやつか。どれも言葉にするほどの感情ではなかった。今はまだ。
「そうやって話をそらすの、よくないと思います」
「心外だなあ。でもまあ、きみが思ってるような理由じゃないよ」
「わ、わたしがどう思ってると思ってらっしゃるんです?」
「それはきみが教えてくれないと」
「……煙に巻こうとしてますね?」
「ははは」
「営業スマイルで誤魔化さないでください!」
世の中にはひとつ明確なルールがある。――誰の手にも渡っていないものを奪うことはできない。おそらくはただそれだけの、話だった。