当然、きみの好みも。

「悪いね、任せてしまって」
 唐沢さんの声に顔をあげる。頼まれていたメールの確認が終わったタイミングなのは偶然ではないだろう。そういうひとだ。幸いにして緊急のメールはなく、端末を運転席との間に置いた。前を見ればちょうど信号が青に変わる。あと一つ先の交差点を左折したら、目的の百貨店だ。
「いえ……こちらこそ運転ありがとうございます」
 滑らかに動きだす車体は揺れも少ない。本来なら部下である自分が運転すべきなのに。助手席に座っている気まずさから背筋が伸びる。唐沢さんはくちびるの端を持ち上げて笑った。
「俺の都合だし、運転も好きだから。酔わなかった?」
「大丈夫です」
「それはよかった」
 営業事務の私が唐沢さん――唐沢営業部長と車に乗っているのは、もちろん仕事のためである。季節は立春を過ぎたころ。得意先へ贈るバレンタインのチョコレートをすべて揃えるには、三門からやや離れた大きな百貨店が最適だった。
『決算も近いし、ここらでダメ押ししようと思って』
 珍しく営業部に顔を出した唐沢さんは笑っていた。電話番は総務に頼んだから、と言われるまま車に乗り込んだのは一時間ほど前だ。私にお使いを頼むでも通販を利用するでもなく催事場に足を運ぶのは『話のネタになるから』らしい。『ベタな誠意に弱い人間は多いしね』と付け足した顔はちょっと悪かったけれど。
「なにを買うかは決まっているんですよね」
「ああ。きみには荷物持ちをさせてしまうことになるけど……」
「大丈夫ですよ」
「ありがとう。助かるよ。バレンタインの真っ只中に男ひとりで行くのはキツイ」
 苦笑の滲む横顔がすこし意外だ。そういうことを気にするのか、と。どんなところも自分の居場所にしてしまえるひとだと思っていた。
「確かに唐沢さんみたいな格好いいひとがいたら目を惹くかもしれません」
「おっと、口説いてる?」
「違います」
「つれないね」
 くすくすと囁くような笑みにほっと胸を撫でおろす。違うと答えた声が自分でも刺々しく聴こえたのだけど、気分を害してはいないらしい。
「口説かれるのはいつでも歓迎だよ」
「だから口説いていません……!」
 冗談だとはわかっているものの、この人はときどき心臓に悪い。跳ねかけた心臓を諌め、真面目に取り合ってはいけないと言い聞かせる。相手は敏腕営業部長。その弁舌の優れたるさまはよく知っている。それに助かっているのは事実だけれど、でも、経験値が少ない人間相手には手加減してほしい。運転席の唐沢さんは至極楽しそうに笑っていた。妙に上機嫌だ。

「築山さんは安心感のある定番ブランド、加藤さんは日本らしさがあると喜ばれるから京都のショコラティエのもの、水沢さんは小さいお子さんがいらっしゃるからアルコールが含まれてないもので、見た目が面白いとなお良し。如月さんにはこだわりが伝わるビーントゥバーもの、今野さんは変り種がお好きだけれど奥様は普通の味わいがお好きなのでどちらも詰め合わせてあるもの。土井さんは話題性のあるものがいい。今年だったらルビーチョコレート。それから――」
「す、すみません。メモができるときにもう一度訊いてもいいでしょうか」
 百貨店の催事フロアは平日の早い時間ということもあって混んではいなかった。いくつもの店を渡りながら次々に買っていく唐沢さんに『どういう基準で選んでいるんですか?』と訊いたらこれだ。
「いいよ。あとで時間を取ろうか」
 笑う唐沢さんが「あの詰め合わせを買ってもらっていいかい。いちばん数の多いやつ」と指示を出す。荷物持ちでついてきたはずだが、買ったチョコレートのほとんどは唐沢さんが持っていた。私はお財布役だ。使っているのは唐沢さんの財布。整然と並んだ黒いカードは見ないようにする。
 領収書を切ってもらいつつ、ちらりと隣の唐沢さんを盗み見た。
「ん?」
 こっそり見たはずが普通に気付かれる。瞳の奥を覗くようにほんのすこし近付いた顔を、背をちいさく仰け反らして避けた。
「あ、いや、……全て覚えているんですか? チョコレートの好み」
 唐沢さんの両手はチョコレートの紙袋で埋まっていて、とてもメモを確認する余裕はない。いやでも、取引先だって膨大なわけだし、まさか。と思いながら尋ねれば「これくらいはね」と軽い返事。私はとんでもない上司のところにいるのかもしれない。「ヒェ……」とかすれた声がくちびるからこぼれ落ちた。
「少しは見直してくれたかい?」
 唐沢さんはからかい混じりに笑うだけ。失言を許容するふところの深さまでが完璧だ。見直すもなにも侮ったことは一度としてないが、優秀すぎる人への恐怖感にも似た尊敬は上塗りされた。

「あー、買った買った。あとは配るだけだ」
 トランクにチョコレートを積み込み、唐沢さんが肩をぐるりと回す。配るだけとは言いつつも、これは配るほうが大変なのではないだろうか。当然のように後部座席もチョコレートで埋まっている。
「昼、どこかで食べて帰ろうか」
 腕時計を見ればちょうどお昼時だ。「レストランに入りますか?」「いや、混んでるんじゃないかな」確かに。別に百貨店でもサービスエリアでも、それこそコンビニでもなんでもよかったので、促されるまま再び助手席に乗り込む。
 ドアをバタンと閉めれば、車内はカカオの香りに満ちていた。帰りは窓を開けておかないと酔うかも、と思いつつシートベルトを締めていると、
「はい、これはきみのぶん」
 運転席から差し出される箱がひとつ。
「えっ」
 すごく見覚えがある箱だ。たまたま見かけて、でも今は時間もなさそうだから自分で来たときに買おうと思っていたチョコレート。見ていたといってもほんの数秒。
「……えっ、待ってください、なんで? これ、いつのまに?」
 受け取る手も出ず混乱していれば、唐沢さんは「さあね」と面白そうに笑いながら私の膝に箱を載せる。
「いや、いや?」
「ああ――ちゃんと自腹だから安心して」
「いえそういうことではなく」
 いいんですか。問えば、返ってくるのは短い答え。いいよ。エンジンがかかり、車が動き出す。こう言われたら受け取らないほうが失礼、だと思う。
 箱が落ちないように位置をずらして、まじまじとそれを見る。けっこう高かったはずなのだけど、まさか唐沢さんからプレゼントされるとは。うれしくて心がそわそわ跳ねる。いや、きっと他意はない。わかっている。これは『いつもお疲れ様』という義理チョコだ。こんなにいいチョコに義理チョコの称号を与えてしまうのも申し訳ないけれど。
「あの、ありがとうございます。嬉しいです」
「喜んでくれてよかった」
「お返し、ちゃんとご用意させていただきます」
「気にしないでいいよ。……あぁ、でも、お返しっていうなら一つ頼みたいことがあるな」
「なんでしょう? なんでも仰ってください」
 にこにこと溢れる笑み、胸を張って告げれば、「それじゃあ」と唐沢さんがくちびるの端を持ち上げる。
「行きたいレストランがあるんだけど、付き合ってくれるかい?」
「そこも一人だと入りづらいんですか?」
「予約が二人からなんだ」
「……お安い御用ですよ」
 唐沢さんが行きたがるレストランの価格設定を思ってすこし怖気ついたが、チョコレートだってそこそこ値の張るもの。それに唐沢さんが行きたいと言うほどだから美味しいに違いない。
 きちんと算段をつけてから答えれば、唐沢さんはまたも可笑しそうに喉を震わせて笑っていた。
「あとひと押しが長いな」
 滑り止めのアスファルトにタイヤが擦れる音が響く。
「いま、なんて仰いましたか?」
 上司の言葉を聞き漏らして、それが重要なことだったら一大事だ。確認すれば、「ん? 昼はなに食べたい?」と微笑み。
「えっ、と……お任せでもいいですか」
「了解」
 なんとなく釈然としない気持ちになりつつも、立体駐車場を出た車がどこに向かうのかすこし楽しみだった。


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