はじめまして

 席替えがしたい、と言ったのは誰だったか。入学からそろそろひと月も経とうというのにまだクラスメイトの名前を覚えきれていないことにひっそり罪悪感を抱えつつ、がたがたきいきい騒ぐ机の群れにまぎれる。厳正なるくじ引きの結果、わたしの新しい席はいちばん廊下側の真ん中だった。もとは窓際のいちばん後ろだったことを考えると、ちょっと悪くなったのかもしれない。
 道を譲り合いながら机を動かし、かたん、と机に載せていた椅子を下ろす。机のなかで暴れた教科書(なぜ教科によってサイズが違うのか)を整えていると、後ろと左の席も埋まっていく。隣は同中でそこそこ話していた男の子、これは心強い。前はだれだろう、名前がわかる子ならいいんだけどな……と顔をあげて、そしてわたしは席替えを主張した誰かのことを恨んだ。いや、むしろわたしが恨まれたのか。
「よろしく」
 たしかに名前がわかる子がいいと思いましたけども。降ってきたやたらといい声に「あ……うん」と愛想のかけらもない声で返事する。彼の名前は、物覚えの悪いわたしでもさすがに知っている。烏丸京介くん。入学式からこっち、彼を目当てにこの教室にやってきた同級生に先輩たちはいったいどれだけいたことか。
 烏丸くんはわたしの机との距離をすこし調整してから、すとんと席についた。黒々とした学ランで視界が埋まる。ずっと前を向いていてほしい。いや。正直に言えば、端正とか秀麗とかそんな言葉が似合う面差しはたいへんとてもかなりわたしの好みではあるのだけれど、なんというか、彼は住む世界が違うタイプの人だ。それこそクラスがおんなじでも関わることはないだろうなと思っていたくらいで、変に緊張する。あと教室をのぞきにきて烏丸くんに話しかけてたちょっと怖そうな先輩の横顔がよぎって胃がきゅってする。
「みょうじ、プリント」
「あ、はい」
 ひっと息を呑んだのは今わたしの名前を呼んだのが烏丸くんであるという事実と、視界に飛び込んできた整った容貌のせいだった。どうやら烏丸くんはプリントを回すとき振り向くタイプらしい。そんなもう投げるくらいでもいいのに。プリントを受け取り、なんとなくわたしも彼にならって振り向いて後ろの席に回す。後ろはおっとりとした感じの女の子だ。これからぜひ仲良くなりたい。
「……あっ、え、あの、なに?」
 前に向き直ってもまだ烏丸くんがこちらを見ていたのでびっくりした。いつも落ち着いた物腰を崩さない彼は、表情の変化が少ない。じっとわたしを見る烏丸くんの意図が読めなくて、へら、と愛想笑いが浮かんだ。目だけでそっとあたりを見渡す。席替えすぐということもあって、クラスはざわざわと騒がしい。
「覚えてないか」
 と、烏丸くんは言った。心なしか、悲しげにきこえたけれど、そのわずかな感情の揺らぎはすぐ教室に木霊する喧騒に紛れる。
「えっ……と、ごめん、前になにか、あったっけ?」
 わたしが聞き返すと、烏丸くんはほんの少しだけ眉間に皺を寄せた。怒らせたのだろうか、いや、とりまるのこの顔は――とりまる? 指先に痺れるような感覚がある。その顔に浮かんだささやかな皺は、なにか小さな傷のようにも見えた。
「……悪い、覚えてないならいいんだ」
 烏丸くんは、わたしがなにか言う前にそう話題を打ち切った。わたしが「そっか」と頷くと、烏丸くんは再び前を向く。その背中を。どこかもっと別のところで見たような気がしたけれど、やっぱりそんな心当たりはどこにもなくて。ただ指先の痺れが伝播したように疼く心臓のことを、そのわけを、考えたくないなとおもった。


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