はんぶんあげる

「もうやだあ」
 からん、とシャープペンシルを放り出す音とともに国近の声が教室に響いた。授業中だったら叱責の声も飛ぶだろうが、今は放課後だ。教室には私と国近しかいなかった。
 ノートのうえにがばりと覆いかぶさった国近は、そのままころんと身をひねってまんまるい瞳をまたたかせた。長いまつげがぱちりとゆれて、私を見つめる。
「ね、ちょっとだけ休憩しよ。ね、ね?」
「この課題おわらないと帰れないでしょ」
「そうだけど~」
 国近は組んだ腕のなかにすごすごと頭を埋めた。くぐもった声が泣き言をもらす。
 課題が終わらないことには国近はボーダーに行けないし、私も帰るに帰れない。小テストでひどい点数をとった国近の自業自得なのだが、それを言うのは酷なのでやめておく。
 いつも一緒に国近の勉強を見ている今ちゃんは作戦会議があるとかで先に帰ってしまった。国近も同じチームのひとに連絡をいれたようだが、チームのリーダーさんも補講か何かで不在なので気にしなくていいと言われたらしい。るいともだ、と私はひそかに思っていた。
 ばさりと広がった浅蘇芳の髪と腕の隙間から下敷きにされたノートを覗く。くしゃりと歪んだノートに書き連ねられた数字はかかとの高い靴で踊ったように頼りないが、努力の跡は見えた。あと三問くらいかな、と机の端に寄せられて落ちそうな問題集を回収しておく。
 それから、伏せたままの国近の頭をそっと撫でた。
「五分だけね」
「やっった! だいすき!」
 がばっ、と顔をあげた国近に現金なやつめと囁いて、居処のなくなった手のひらを宙に泳がせる。それにねこじゃらしを振られたネコのような反応をしたのは国近だ。「キャッチ!」と声が跳ねて、私の右手は国近の両手に挟まれる。
「爪、なにか塗ってる?」
 私の手をしげしげと眺めながら国近が首をかしげた。「ベースコートだけね」と返して、そのまま好きにさせる。ふにふにとやわらかな指先が爪を撫で、手の甲の筋をなぞる。「反対の手も」言われるままに差し出せば、やっぱりくすぐるように撫でられる。それからひっくり返されて――「えっ」と国近がびっくりしたような声をあげた。
「なまえ、生命線みじかくない?」
「そうだよ」
 十八年も女子をやっていると、一度は手相の話になる。私の生命線はたしかに短いのだった。親指の付け根からまっすぐ横に伸ばした位置で途切れている。
「めちゃくちゃ短いじゃん。わたしの半分くらいだよ」
 ほら、と見せてくれた手のひらにはくっきりとした生命線があった。手首近くまで伸びたそれに「長いね」とつぶやく。羨ましいとかそういうことは思わないけれど、天真爛漫な彼女らしいと思って微笑ましくなる。
「私のほうが先に死んじゃうから、そしたらひとりで課題するんだよ」
 冗談めかして呟いてから、ボーダーに所属する彼女に言うには悪趣味な冗談だったかなと反省した。国近は「それはこまる」と眉を寄せたが、怒っているというより一人で課題をするのがいやみたいだった。
「あっ」
 なにか思いついたらしい国近が、にま、と頬をゆるめる。
「じゃあわたしの人生、はんぶんあげる」
 うん? と、私が言葉の意味をうまく理解できなかったことを察したのか、国近は「あのね」とやさしい声で紡ぎつつ、えへんと胸を張った。
「わたしの生命線を半分くらいなまえにあげるの。そしたら長生きできるでしょ」
 ぱっと開いた手のひら、長い生命線を見せつけるようにして国近が笑った。指を伸ばしてその長さを測れば、私の三倍くらいはあった。生命線も寿命も他人に移す術はないと、もちろんお互いにわかっているけれど、彼女が私の長生きを願ってくれたのは素直にうれしい。
「そうだね。でもそれだと国近が短命になっちゃうから、私のも半分あげるよ」
「それって意味あるの?」
「私の寿命をXとしたら国近の寿命は3Xでしょ、それを半分にして、にぶんのいちXを足して」
「まっていまは休憩中だよ?」
 ストップ、と顔の前でばってん印をつくり、国近は私の言葉をさえぎった。はいはい、と頷きつつ、「あと一分だけどね」と付け足す。
「えぇ~……延長は?」
 ばってん印からちらりと顔を出して、上目遣いに私を見つめる。かわいい顔につい甘やかしたくなるけれど、すんでのところで『柚宇をよろしく』と今ちゃんの言葉を思い出し踏みとどまった。
「だめで~す」
「うわあん」
「あともうちょっとだから。がんばろ」
「……がんばる」
 いやいやと泣くわりに逃げ出しはしない、国近のそういうところが好きだけど、言ったら調子に乗るので言わない。代わりに「ぜんぶ終わったらコンビニ行ってアイス買お」と告げると、「だいすき」とまたも安い愛の言葉が返ってきた。


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