春はきらいだ

 冬のしんと冷えた気配を吹き荒ぶ風が乱していく。
 春は、いつもそうだ。風に雨に雷に、雪はぐずぐず融けて泥濘み、虫は這い出て小鳥が囀る。春はいつだって騒がしくて仕方ない。
「士郎くんは春がきらいなんだね」
 ぶつくさと吐き出した文句のすべてを鷹揚に受け止めて微笑む彼女は、菊地原士郎の幼馴染みだ。二学年差だけれど、家族ぐるみの付き合いのうえでは些細なことだった。おたがいに一人っ子だからか、なまえは菊地原を弟のようにかわいがってかわいがって、どんな我が儘も悪態も愛想の悪さも、ぜんぶまとめて許してしまう。許されて当然だと、思うほどに。菊地原の性格の悪さは、ある意味でなまえが育てたようなものだ。
「私はあったかくてすきだけどな」
 窓辺で陽射しを受けながら、なまえが言った。桜のつぼみはほころびはじめ、淡い青に薄く雲がたなびいている。街を見つめてまぶしげに細められた瞳に、まろい頬におちた睫毛の影。菊地原の色素の薄い髪を羨ましがっていたなまえの黒髪は、漂白されて菊地原とおなじ色になっている。染めてきたよと笑ったのは卒業式の次の日だった。ちっとも似合ってないって言って、彼女の笑顔を曇らせたのも。
「……しゃべってないで手を動かしなよ」
「はあい」
 文句を重ねると、なまえはすなおに頷いた。クローゼットから引き出された分厚い冬物のコートが、マフラーが、セーターが、手際よく段ボールへ収められていく。菊地原も本棚に並んだ小説を、一つひとつ段ボールへ移す。ばかみたいに丁寧に。すこしでも、この作業が長引くように。
 なまえは次々に段ボールを組み立てていく。部屋のなかを忙しく動き、ときに階段をばたばたと下りて、また戻ってくる。埃が立つねとからから開けられた窓から、わずかに冷たい春風が入り込んでカーテンがゆれる。ちらちらと瞬く光が煩わしい。


 菊地原よりも、なまえはふたつも年上だ。けれど、いつだって追いかけるのは彼女のほうだった。やたらとお姉さんぶるくせに、一歩外に出ると菊地原のあとをついて歩く子どもだった。ボーダーだって、菊地原が先に入ったのだ。ランクだってポイントだって菊地原のほうがずっとずっと高かった。なのに、なまえは。もう菊地原を追いかけてはくれないと、言う。
 面と向かって言われたわけでは、ないけれど。
 でも、だって、彼女はここを出ていく。
 三門から遠く離れた大学に合格して、ボーダーもやめて、一人暮らしをはじめる。自分の知らないどこかで、知らないだれかと、知らない記憶を重ねていく。明日には、この場所を、からっぽにしてしまう。
「お手伝いありがとね」
 何度目かの階段往復のあと、戻ってきたなまえの手にはソーダアイスがあった。差し出されたそれを受け取りながら「ハーゲンダッツがいい」と言ってみる。彼女は「終わったら買いにいこうか。サーティーワンでもいいよ」と笑った。菊地原の我が儘をなんでも許そうとするなまえが、そこにいる。
 透明な袋を破って、ケミカルに青いソーダアイスに噛み付いた。しゃくしゃくとかじればつめたいものが喉をすべりおちて、あばらの内側の空白に馴染んだ。真ん中に入った甘ったるいバニラアイスが口に残り、周回遅れで溶けていく。
「ね、士郎くん」
 春のひかりをあびて、やわらかな声が問う。
「……私には文句を言ってくれないの?」
 なまえがそんなことを言う心当たりがひとつだけあった。数日前のボーダー本部で、菊地原は歌川にぼやいたのだ。春は除隊するやつがおおいから、シフトが狂ってめんどう、とか。辞める隊員の目の前で。弁明するなら、話したことのない顔も名前も覚えていないやつが春にボーダーを辞める予定で、たまたまそこに居合わせていただなんて知らなかった。品行方正なチームメイトはお互い様だろと苦笑しつつ場を取り持ったけれど、菊地原に暴言を吐かれたと噂が広まったことくらい聴こえていた。
「べつに、」
 文句はいくらでもあった。そんなに遠い大学にいくなんて聞いてない、ボーダーを辞めるとかも聞いてない、相談くらいしろよ、いくなよ、ここにいろよ。
 でも、なまえは。そんな文句を連ねる菊地原を怒りはしないだろうけれど。いつだってそうしてきたように、許してくれるけれど。じゃあここにいるね、とはぜったいに言ってくれない。そのくらいわかってる。
「ぼくはおまえに興味ないし」
 そっか。と、呟いた彼女の顔を見れなかった。ソーダアイスを咥えたまま、本を詰め込んだ段ボールをガムテープで閉じる。なまえは「あ、それ終わった?」なんて、なんでもないふうに問いかけた。
 春は、やっぱりきらいだ。


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