三文の徳

 待ち合わせ時間よりも前に着いてしまう理由は、昔は、こちらの世界への不慣れさが大きな理由だった。まず街のことを把握していないし、網の目のように走る公共交通機関とやらのこともよくわからなかったし、徒歩で向かうにしてもいつどんなトラブルに襲われるのか皆目検討もつかない。だから、初めて彼女と外で待ち合わせる約束をしたとき、遊真はレプリカの提言に賛成して、ずいぶんと余裕を持って玉狛支部を出た。ら、思ったよりもスムーズに、そして待ち合わせ時間にはだいぶ早く辿り着いてしまったというわけだ。
 今はどうだろう。もう何度目かもわからないくらい繰り返した彼女との待ち合わせ。やっぱりずいぶんと早く着いてしまった遊真は、とくに語りかける相手もいないまま考えてみる。もう何年かこちらの世界に暮らして、街のことも、乗り物のこともよく分かってるのに。ぴったりの時間に着く方法も。
「遊真くん!」
 遠くの方から声が届いた。耳によく馴染んだ声に、唇がつりあがる。声の方を見れば、彼女が軽く手を振って、遊真のほうへ早足で駆けてくるところだった。ふにゃりと笑みを抑えきれない顔がよく見えた。遊真も彼女の方へ歩いていけば、距離はどんどん近くなる。ぴたり、と止まったのはふれあえるほどの近さになってから。
「いつも早いね?」
 彼女の言葉に「ふむ」と頷いてみせる。自分を見つけたときの、彼女が笑みを浮かべようとして、けれど気恥ずかしさからかすこし抑えようとする表情だとか。早足で駆けてくるときの靴音だとか。いざ真正面に立ったときの、ほっと緩んだ表情を見上げることだとか。たぶんそういうひとつひとつを感じたくて、自分はわざわざ早く着くようにしているのだろう。
「早起きは三文の徳ですからな」
「早起きと三十分前行動は別じゃないかな?」
 くすくすと笑った彼女の隣に並んで、遊真は「奥が深い」とうそぶいておいた。


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