きみがいない未来で生きている

 『それ』は、選ばれなかった未来の続きだった。
 彼女が視え始めたのはいつからだろう。意識をしたのは、十九の初夏だった。街を歩いていると、不意に未来が瞬く。ずっと昔から繰り返した感覚に、かすかな違和感があった。それが、覚えている限りでの最初。おそらくはそれよりも前に視ていたのだろうけれど、彼女を意識したのはそのときだった。
 知らない背中が視えた。女性の背中だということは何となくわかる。けれどそれが誰なのかはわからない。どこかで視たような気もした。今まで視てきた未来のなかに、この背中はあっただろうか。
 彼女に声をかけると、朗らかな笑みとともに名前を呼ばれる。彼女が笑みを浮かべることはわかるのに、その笑みがやさしいものであるとわかるのに、どんな顔なのかは視えない。
 ただ、じわりと胸があつくなるような感覚があって、自分はこの人を好きになるのだろうという予感があった。浮かんだ笑みも、名を呼ぶ声も、その背中も。どれも不思議なほど好ましかった。
 白昼夢にも似た未来に、首を傾げた。これは、きっと、自分に訪れる可能性のある未来だ。そう思うのに、思いきれない。
 違和感の正体を言葉にするのは難しかった。
 いつかあなたに出会えるだろうか。そう未来に問うことが、少しだけ恐いような感覚。会いたいと願っても叶わない気がした。いや、もっと言えば。その未来を、選べない気がした。
 二度目は、ボーダー本部の自動販売機でカフェラテの缶を選んだときに視えた。砂糖かミルクを入れなければ飲めないはずの自分が、ブラックコーヒーを飲んでいた。向かい合った正面には彼女がいて、ゆったりと微笑んでいた。彼女の淹れたコーヒーを飲んでいるのだと察した。
 三度目は、住宅街のまんなかで視えた。この角を曲がると、ちょうど家から出てきた彼女に遭遇する。視えた未来のとおりに角を曲がったけれど、そこにあるのは家ではなくて、ただの空き地だった。
 ――ああ、『これ』は。
 そんなふうに、不意に未来が瞬くときと同じように、理解した。
 ――この、未来は。
 選ばれなかった未来の、続きだ。
 いつか、どこかで、誰かが選ばなかった可能性の続きを、あり得たかもしれない未来を、視ている。
 彼女とは出会えない。彼女と出会える分岐は、現実の、現在の、どこにもない。
 理解に根拠はなかった。自分は彼女と出会える世界にはいないのだということだけを、漠然と、けれど深く理解した。

 『それ』が視える理由について考えることはしなかった。そもそも未来が視えること自体、考えたって答えの出ないことだ。あるのは視えるという事実だけ。
 出会えない彼女との未来は、そうと理解してからもときどき瞬いた。もうとっくの過去に分岐した、言い換えれば並行世界の未来を視ることは、けれど不思議と煩わしくない。
 選ばなくていいからだろう、と思った。未来を視たときは、それを現実とするか、しないか、その選択を委ねられる。けれど彼女の生きている未来は手の届かないところにあって、選択の権利がない。より良い方を選ぶという義務が、ない。それは初めての感覚で、だから気が楽なのだと思った。
 でも、きっと、ほんとうは。
 彼女がいつも笑っていたから。
 ささくれた心を、そっと撫でていくような、そんなやさしさが滲んでいたから。
 未来が瞬く。
 選ばれなかった可能性のその先が、映り込む。

 ふたりでどこかへ出かけたらしい。昼の海。人が少ないから、きっと夏ではないのだろう。潮風が彼女の髪をなびかせて、波が足元をすくう。バランスを崩した彼女を支えた。ありがとう、と笑みがこぼれる。
 部屋に、ふたりでいた。並んで座って映画を見ていた。あとすこしでふれあうだろう肩を引き寄せれば、横顔は楽しそうに緩められる。
 彼女の顔を見たことがないのに、どんなふうに笑うのか知っていた。彼女の声を聴いたことがないのに、自分を呼ぶ声のやわらかさを知っていた。彼女の名前を知らないのに、呼んでみたいと思った。
 焦がれていた。
 それに気付いて笑う。どうしようもないのに。彼女とは、出会えないのに。
 なんとなく、わかっていた。出会えない彼女。出会えたかもしれない彼女。その可能性をつぶしたのは、選ばなかったのは、きっと自分だ。
 より良い方を。そう思って選んできたものの陰に、おそらく彼女はいた。



「迅さんには、そういうヒトはいないのか?」
 幼さの残る声が思考を掬う。真夜中の玉狛支部に起きているのは、迅悠一と空閑遊真のふたりだけだった。
「いないな」
 答えながらホットミルクに口をつけた。暗躍帰りの身体は睡眠を求めているが、眠れない少年に付き合って、晩酌ならぬ真夜中のホットミルクを飲んでいるところだ。疲れた体に温もりと甘さは心地いい。
 空閑のいう、そういうひと、というのは、いわゆる恋人のことらしかった。まだ短い付き合いではあるけれど、そういうことを訊いてくるのは少し意外だった。
 それをそのまま告げれば、迅が留守にしていた昼間にそんな話をしたのだという。
「色恋沙汰はよくわからんが」
 いろこいさた。少々古めかしい言葉を使いつつ、少年は首を傾げる。
「迅さんは、そういうの、得意そうだと思っていた」
「どうだろうな。不得意ではないと思うけど」
 未来視のサイドエフェクトは便利だ。相手に対してとる行動を、相手の反応を視てから決めることができる。だから、誰かに好かれようと思えばきっと容易いのだろう。
「でも」
 そっと瞼を下した。一瞬だけ呼吸を止めて、それからゆっくりと開く。空閑の赤い瞳が迅を見つめていた。
「そもそも、相手がいないとな」
 焦がれる人はいる。そのひとが、どんなふうにすれば自分を好きになってくれるかも、わかる。けれど彼女は迅と出会わない。もう、出会えない。
「むつかしい問題ですな」
 難しい顔をした空閑は、そういう気持ちを抱くこと自体が不慣れで、不可解なのだろう。少年が今まで生きてきた世界のことを思いつつ、「そうだな」と頷く。
「だからおまえは、もしも相手を見つけたら、すぐに捕まえるといいよ」
「ほう」
「それから、そもそも相手を見過ごさないように注意深くするといい」
「ほほう」
 親指と人差し指でつくった三角形を顎に添えて、空閑が頷く。ちゃんと訊いているのかいないのかはよくわからない。どちらでもいい、と思う。
 ホットミルクはまだあたたかい。それをちびりと舐めた。あまい味が広がる。もうしばらくは、ブラックコーヒーも飲めそうにない。


 暗い天井を見上げる。ベッドに横になってもすぐに眠れるわけではないのは、昼間に見たり、視たりした情報を整えるのに時間がかかるからだろう。
 夢と現実のすきまは、静かに思考を促す。ふかく呼吸をすると、ほろほろとなにかが崩れていく。
 より良い方を、選んできた。間違いではない選択をしてきたつもりだ。選ばなかった方から謗られることだって覚悟していた。未来を選ぶことの傲慢さを責められることも。全部含んでいる。
 だから、より良い方を選ぶ迅のことを、いくらでも怒ってくれて構わないのだ。
 でも、彼女は。迅を、責めてはくれない。迅だけが、出会えなかったことを知っている。
 未来が瞬いた。彼女はやっぱり笑っていた。手に入れることのできないそれは、焦燥を燻ぶらせる。けれど同時に、彼女の笑みは心をそっと撫でていく。
 視えなくてもよかった未来だ。でも、視えてよかったと思う。取りこぼしたものの重さを、選択することそれ自体の重さを、忘れさせないでいてくれる。地に足をつけて、人間にしてくれる。
出会えなかったことは彼女のやさしさだったのかもしれない。そんなことを思ってしまう自分がいて、世界はそんなに都合良いものではないのにと笑う。
 でも、もしも、迅が彼女と出会える未来に気付いていたとして。それでも、その未来を選んだかはわからないから。
 迅にはより良い方を選ぶ義務がある。自分で自分にそう科したのだ。選べる自分は、より良い方を選ばなければならないと。
だから、いつか彼女を選ばない日だって、訪れていたかもしれない。選ばない、選べないことの苦痛を、迅はよく知っている。何度経験しても、薄まることがないことも。
 やさしいひとだね、と囁いて。
 ひどいひとだ、とちいさく笑う。
 彼女は、彼女を選べなかった罪悪感さえ、迅にくれなかった。そんなひとだから、もう出会うことはないとわかっているのに、焦がれてしまう。
 爪痕のひとつくらい残してくれてよかったのに。
 出会えなかったひとに焦がれながら、目を瞑る。なにもみえない瞼の裏に彼女を思い描いた。

 せめて、おれのいる未来で生きているあなたには、幸せでいてほしい、なんて。やっぱり、すこし、わがままと身勝手が、過ぎるだろうか。

迅悠一夢アンソロジー『parallel』寄稿


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