ブルーランドスケープ

prologue

 よるがあけるね。
 彼女は白線のうえを歩きながらささやいた。東の空はもうずいぶんと明るい。群青の絵の具をひとしずく水に落としたような、青より青いあお。夜とも朝とも言えない、この僅かな時間だけに許された色だ。あおは迅くんの色だね。美術の時間、彼女はそう言っていた。
「迅くんは」
「うん」
「……どうして、迎えにきてくれたの?」
「自分で呼んどいて言う?」
「言っちゃった」
「言っちゃったか~」
「へへへ」
「ちゃんと歩いてよ」
「うん、」
 顔をあわせるのは卒業式以来だった。ずっとおなじ街に住んでいるのに。かつての同級生は迅を振り返ることなく白線を辿る。ふらふらとした歩みにあわせてロングコートの裾がひらりとゆれた。ちいさな子どもみたいだ。無邪気なままにこころをかき乱すところなんか特に。
 この酔っ払いめ。こくりと言葉を飲み込めば、凍てついた夜の名残りが肺を刺す。
「……初恋だから」
 白く烟る吐息にさえまぎれる幽かな声だ。だれに聴かせるつもりもない、数年かけて丁寧に潰したもの。でも、迅が迎えに来なければ彼女はサークルの先輩とやらにふらふら着いていくから。遠ざかってあげた迅におめおめと選択肢を与えるから。――諦めたかったのに。
「わたしもだよ」
 ちかり、とひかりが瞬く。あおを掠めた未来、くちびるからこぼれた音は意味を成さない。
 よるがあけたね。花の蕾が緩むようにささめく声が、迅から夜を攫った。





 スマートフォンの液晶はひんやりとして心地よい。居酒屋の喧騒を押しやるように耳のすぐ近くで呼び出し音が鳴っていた。空けたグラスのぶんだけアルコールがからだを駆け巡って、くらくらと視界がゆれる。あと三回鳴っても出なかったら諦めよう。いちかい。にかい。さん、――ぷつ、と小さな接続音。
「あッ、迅くん、あの、わたしです」
 勢い切った言葉は酔っているせいかもしれない。電話の向こうの迅くんは、ちょっと驚いたような沈黙のあと、吐息をこぼすように笑った。
『知ってる。画面に出てるし、名前。なんかあった?』
 迅くんが喋るとそこに風の音が混じる。外にいるらしい。こんな時間に? すんでのところで言葉を飲み込む。迅くんは、もしかしてボーダーの仕事中だろうか。すっと頭が冷えた。回るのが早ければ抜けるのも早い、わたしの長所で短所。酔った勢いに押されてかけた電話も、酔いが醒めれば途端に覚束なくなる。
「いやあの、なんでもなくて、その」
『……いつものとこ?』
 やっぱりどこか笑うような声だ。ぜんぶおみとおし、みたいに。鼓膜をくすぐる低い声にきゅうと指先が痺れた。
『それとも違う場所?』
 アルコールは抜けてきているはずなのに、頬はずっと熱いままだった。あんなに冷たかった液晶画面さえ生ぬるくなっていく。素直に答えてしまったのは、だから、その熱のせいで。
「いつものとこ、です」
『了解』
 返す言葉を探したひと呼吸のあいだに、ぷつりと途切れた通話の三十分後。迅くんは今日もわたしを迎えにきてくれた。


 数ヶ月前の飲み会がはじまりだった。サークルの先輩に勧められるまま飲んだ寒い夜。
「大丈夫?」
 だれかの手が背中をさする。ぐらぐらゆれた世界に現れた声と手のひらで、彼を思い出した。もうずっと会ってないのに、ふわふわした頭のなかであざやかに瞬いた笑顔。熱中症にだれよりもはやく気付いてくれたおとこのこ。やわらかな色の髪、夜明け前の空に似たあおい瞳。卒業式の日にじゃあねとわらった同級生。進学を選ばなかったヒーロー。言えなかった言葉たち。
 ひどく酔っていたのだとおもう。送っていこうか? それとも泊まってく? 家、けっこう遠いんでしょ。ぐわんぐわんと響く声に「いいえ」と返した。いいえ、よびます、むかえ。
 手と頭が切り離されてしまったみたいに、考える前から指が動く。家族でも友達でもなくて、わたしの指は彼を、迅くんを選んだ。二年生の文化祭で、買い出しのときに交換した番号。一度も使わなかったそれを今になって。
 呼び出し音が鳴ったことにまずびっくりした。心臓が痛いくらいに跳ね上がる。
「だれ?」「彼氏?」色めき立つような声に反応する余裕もなかった。この音の向こうに彼がいる。
『――もしもし?』
 どれだけ鳴らしたのかは覚えていない。ただ、迅くんが出た。迅くんの声だった。
「あのね、迅くん。むかえにきてほしい」
 くちびるからこぼれた言葉がすとんとおちる。迎えにきてほしい、会いたい。アルコールで剥がれた理性を丸めて捨てて、残っているのはそれだけだ。思い出にするにはまだ近すぎて、憶えていることのほうがたくさんあって。だから、ずっと、すきみたいだった。

「じゃあね」
 そのひとことで、ぱちんと目が醒めた。
「迅くん?」
「ん?」
 サークル御用達の居酒屋にいたはずのわたしはどういうわけか家の前にいて、ちかりと眩しい朝日で夜が明けていて、目の前には迅くんがいて。視界が傾く。こめかみに痛みがはしった。ずきずきがんがんあたまの内側で鉛玉が暴れるような。手のひらで覆えば気休め程度に和らぐ。これがうわさの二日酔いだろうか。
「頭痛い? 大丈夫?」
「あ、はい……あの、迅くん、なんでいるの?」
「えっ、今?」
 ぱちりとあおい瞳を瞬かせた迅くんが、持ち上げていた手をかくりと落とす。気のせいでなければそれはわたしに向けて伸ばされかけていた。わからないけど。ああもう、なんにもわかんない。どうして迅くんがここにいるのかも。
「覚えてない?」
「……サークルの、飲み会で……」
「そこで法律を破って」
「ハイ……ごめんなさい。それで、その……ええと、」
「おれに迎えに来いって言ったんだよ」
 えッと勢いよく顔を上げればぐわわわあんと頭がゆれた。まぶたを下ろして痛みをやり過ごしてから、迅くんを見上げる。かちりと目が合った。はく、と言葉を忘れた呼吸が漏れる。卒業してから会うことのなかった迅くんが目の前にいるのは夢でもなんでもなくて、おそらく現実で、だからこそわたしの知っている彼とはすこしちがっていた。
 背が高くなっただろうか。あおい瞳が記憶よりも遠いような気がした。大人っぽくなったのかもしれない。前髪をあげているのはおなじだけど、髪はきっと伸びた。青い、たぶんボーダーの制服は、真っ黒い詰襟よりも迅くんに似合っている。でも寒くないのかな。
「……覚えてないんだ?」
 痺れを切らしたように迅くんが口を開く。問いかけではあったものの、もう答えは知っているらしい。へにゃりと眉を下げて困った顔でわたしを見下ろしている。こまる、困るだろう。呼び出されておいて忘れるなんて、怒ったっていいくらいだ。
「まことに、申しわけございません……」
「ほんとに思い出せない?」
「……、まって、えっと……電話……かけたような、そんな気も……あっうん、かけた、かけましたねわたし」
 思い出そうと集中すると痛みを鋭く感じるけれど、思考にかかった靄も晴れていく。先輩が飲みやすいって言ったお酒を飲んで、飲んでしまって、送り迎えのはなし、大丈夫ってまえもきかれたことあったなって、それで。
「迅くんに、むかえにきてって、いった」
 うん、と迅くんが静かに頷く。
「そのあとは……ごめん、覚えてなくて……」
「そっか」
「……あの、迅くんはそれで、ほんとに迎えにきてくれた、の?」
「自分で呼んだくせに言う?」
「ご、ごもっともです……!」
 拗ねた顔をつくったのは一瞬で、迅くんはふっと吐息をこぼすように笑う。わたしの知らない笑い方だった。笑い声さえ憚られるような早朝の住宅街だからかもしれないけれど、でもむかしはもっと思い切りよく笑ってたのに。それとも昔から、こういうふうに笑うときはあったのだろうか。
「で、」
 きろり、と迅くんが眦を鋭くする。あ、おこられる。きゅっと肩が丸まった。
「酔いが醒めたみたいだから訊くけど」
「ハイ」
「おれが来なかったらどうするつもりだったわけ?」
 声音は穏やかだけれど、怒っていることは読み取れた。心配してくれているのだと、思う。だって迅くんはやさしいから。いつも、ヒーローだから。
「それはその……反省してます……」
 誘われるまま先輩の家に行っていたかもしれない。なんとなく、正直に言うとますます怒られそうな気がして謝罪が先に出る。
「あと、迅くんにも迷惑かけて、ごめんなさい」
「それは気にしなくていいよ」
 ちいさくため息をついてから、迅くんはほんの数センチだけわたしの方へ踏み出した。あおい――夜明け前の空に似た瞳が近付く。じっと降り注ぐような視線が懐かしいような、そわりと疼いて落ち着かないような。あのころ見ていたのは横顔ばかりで、こんなふうに真正面から見ることはほとんどなかった。
「……迎えに行く方を選んだのは、おれだ」
 ゆっくりと、言い聞かせるような声が鼓膜に沈み込む。あおい瞳はただただ澄んでいた。
「……なんで迎えにきてくれたの?」
「呼んだ本人が言うなっての」
 呆れたように笑って、やっぱり答えてはくれなかった。この話題はもうおしまいらしい。ふい、と逸らされた視線の先には朝がある。眩そうに細まったあお、見慣れた横顔。
「付き合いもあるだろうし、飲むなとは言わないけどさ。気をつけなよ」
「うん」
 心配してるとき目を逸らすのはあんまり変わってないんだね。こころの内側でささやく。あの夏の日に校舎の影に連れて行ってくれたときとおんなじままだった。それがなんだか、泣きたくなるくらいうれしくて、誤魔化すように朝を見る。眩いひかりが涙をぜんぶ蒸発させてくれることを祈った。
「迅くん。迎えにきてくれてありがとう」
 ツンと鼻が痛む。ずっと会っていない同級生から真夜中に呼び出されて、それで来てくれる迅くんのやさしさがじわじわと沁みた。わたしのこと心配してくれたの? 心配してくれるぐらいには、わたしのことを好ましいと思ってくれていた? 訊きたいことはたくさんあるのに声が出ない。夢から醒めてしまいそうで。
「どういたしまして」
 ため息まじりの声が、そのくせやさしいのでずるい。だから、いつまでも引き止めていられるわけがないのに、さよならが言えない。ここでお別れしたらほんとうにもう会えなくなるんじゃないかと思ってしまう。だって同じ街に住んでいるのに今日まで会わなかった。
「あの、迅くん……」
 ――またあえる?
「……気をつけて帰ってね」
「ん」
 こくりと言葉を飲み込めば、胸のあたりがつきりと痛む。痛いくらいつめたい空気のせいだった。
 迅くんはいつもまたねを言わない。そんなことずっと前から気付いてる。彼について、知らないことの方が多いことも。迅くんが爪先を東へ向ける。じゃりっと靴底がアスファルトを擦った。一歩、二歩と歩いて立ち止まる。振り返ったあおい瞳と目が合った。その背中が角を曲がるまで見送ろうとしたのは気付かれただろうか。頬に熱が集う。
「どうしたの?」
「あー……呼んでいいよ、酔ったとき。あと夜遅くなったときも」
 えっ、と、声がでたような、ただ呼吸に紛れてしまったような。あおはもう空の向こう、でも迅くんの目はあおいままで、青天のへきれきのへきれきってなんだっけ。
「まあ来ないときは来ないと思うけど。そういうときは大人しくタクシー使って」
「……むかえにきてくれるの?」
 震える声がひかりにとける。迅くんは目を逸らして「呼ばれたらね」とささやいた。




 迅くんは今日もボーダーの制服を着ていた。それで出歩いていいの、と聞いたことがある。いいんじゃない、と迅くんは笑った。誰も見てないし。付け足された言葉は悪戯めいていた。住宅街に目立つその色も真夜中にはわたししか見ていない。
 忙しい隙間を縫って来てくれたことはわかってる。夜道に浮かぶ青色に小走りで駆け寄れば「酔いが回るよ」と窘められた。
「ごめんね」
 それは、罪悪感を薄めるためのエゴイズムでしかない。謝ったところで忙しいとわかっている人を呼び出したのはわたしで、やさしさにつけ込んでいる自覚はあるのにうれしいと思ってしまう。迅くんが迎えに来なかったことはまだ一度もなかった。
「ちょうど近くに用があったから」
 嘘か本当かわからないことを言いながら、迅くんはいつもと同じように笑った。となりに並べば言葉もなく帰り道を辿る。白線で区切られただけの車道と歩道をそれぞれ歩いた。
「今日は途中抜け?」
 視線の先は居酒屋だ。引き戸のガラスから漏れる光がくたびれた暖簾を透かしている。中ではまだサークルの人たちが面白おかしく飲んでるだろう。終電も終バスもなくなった時間だけど、まだ朝には遠い。飲み続けているみんなは家が近いか、家が近い人のところに泊まるので問題にしてない。
「うん、あした……もう今日だね、朝から出掛けるから」
「授業は、って思ったけどいま休みなんだっけ」
「そう、今月いっぱいは。四月も最初の方は休みだよ」
「めちゃくちゃ休むなぁ」
「わたしもびっくりした」
「休みのわりに飲み会多いよね」
「ご、ごめん」
「怒ってないよ」
 見上げたあおい瞳はやわらかく細まっていた。怒っていないらしい。でも迅くんに迎えにきてもらえるから前よりも積極的に飲み会に参加してる、って言ったら流石に怒るだろうな。そんなこともうばれてるかな。ばれているとしたら、いやそうじゃなくても、迅くんはどうして迎えに来てくれるんだろう。期待がないと言ったらうそだけど、ちがっていたら目もあてられない。確かめて、また会えなくなったら。
「……ホントに怒ってはないけど、なに、飲みサーなの?」
「えっちがうよ! テニスとかじゃなくて写真サークルだし、飲むの好きな人が何人かいるだけで」
 誤解されたくない! と声を張り上げれば、迅くんはちょっとだけ驚いたように肩を揺らした。
「写真」きょとん、とした響きだ。
「……言ってない?」
「言ってないよ。だいたいご飯の話」
「……確かに」
 わたしと迅くんが話題を共有できていたのはあの小さな教室のなかだけで、今はなにも共通点がない。迅くんは大学にいなくて、わたしはボーダーにいないから。精々このあいだ食べたオムライスがおいしかったとかSNSで話題のカフェに行ったとか、そういう話しかできない。それだって迅くんのほうが色んなお店を知っているけれど。
「絵を描いてると思ってた」
「飲みサーで?」
「飲みサーの美術サーで。高校のときも楽しそうだったし」
「迅くんはいつも寝てたね」
 二年生の選択科目を選ぶころにはもう迅くんのことを目で追っていたように思う。美術と書道と音楽と、いちばんすきなものを選んだだけだったのに、そこに迅くんがいたから跳び上がりそうなほどうれしかった。
「まあ寝れるから選んだところはある。もう描かないの?」
「うーん……あんまり上手じゃないから」
「そう? 十分うまかったと思うけど」
「ありがとう。絵はね、描くのがいやになったとか、そういうのじゃないんだよ。なんだろう、絵は想像で好きに描くことだってできるしそれが楽しかったんだけど、写真って、基本は目の前のものを撮るでしょう? 想像で好き勝手できなくて……でもだからってそのまま映すんじゃなくて――いまここにある、わたしがみている世界を切りとるみたいな、この瞬間を逃すともう撮れなくて、だから難しいんだけどそこが面白いんだ。かたちにすることが難しいのは絵と変わらないんだけどね、でも同じものを撮っても人によってぜんぜん違ったりして、そういうのが楽しいなって……おもう……」
 息継ぎを忘れて痛んだ肺に喋りすぎだと怒られた気がした。つまらない話だと思われたかな、となりを伺ってひゅっと息がとまる。
「好きなんだ?」
 吐息をこぼすような大人びた笑みはあの頃とはちがう。ちがうけど、それはやっぱり迅くんだ。わらうとやさしく細まるあおい瞳のおとこのこ。
「うん、好き……すき、」
 すきだよ。
 言葉をくちびるにのせるだけでどうにかなりそうなくらい。燻らせ続けた気持ちはわずかな呼吸も十分な燃料だ。伝わらないとわかって口にするのは卑怯かもしれない。もうすこし酔っていたら勢いのまま告白できただろうか。電話をかけたときみたいに……あの日みたいに?
「……あの、迅くん、最初に送ってもらった日、わたし、変なこと言ってなかった? ほら、その、覚えてないから不安で……」
「……さあ? どうだろうね」
「含みがある!」
 しーっ、と迅くんは人差し指をくちびるにあてる。夜だから。ささやく声が思いのほか近くにおちた。頬が熱いのも心臓がどくどくうるさいのもアルコールのせいじゃないって、言えたらいいのに。
「……その、もしかしてなにか粗相を……?」
「大丈夫だいじょうぶ。ご機嫌な感じで歩いてた」
「そ、それならいいんだけど」
「うん。……写真、どんなの撮るの?」
「えっと、なんでも撮るよ……人物写真はちょっと苦手だけど、景色、街のなんでもない感じとか、花とか猫とか……み、見る?」
 鞄の奥に滑り込ませたスマホを探しながら問えば、迅くんはちいさく笑いながら頷いた。訊かれたら見ないとは言えないだけかもしれないけれど、興味を持ってくれたことがうれしい。
 歩きながら画面に触れれば夜道にぱっとひかりが広がる。目に痛くて明るさを下げる。通知がいくつか並んでいた。先輩から『帰れた?』と入っているのはいつものことだ。ロックを解除して、パソコンと繋がった写真共有アプリを開く。
「――あおいね」
 小さなサムネイルが並んだ画面を覗いて迅くんがささやいた。空と海と花、洋服の色、モルフォ蝶の翅、看板とブルーシート。あんたの写真はいつもどっかに青色があるね、と友達に言われたことがある。まるで彼を探しているみたいだと思った。ほんとうにそうだったのかもしれない。
「絵のときも青色の印象が強かったけど」
「す、すきだから……気に入ってるのはこれ、かな」
 跳ねた心臓を宥めながら写真を選ぶ。夜明け前の街を、カメラの設定を調整しながら撮った一枚。やっぱりあおい街、真新しい白線と、ほとんど剥がれた古い白線。人も動物も花も、ぜんぶが眠っているようなしんと静かな街はすこし肌寒くて、見惚れるほどきれいだった。コントラストがいいねと先輩にも褒められた写真だ。
 じっと画面を見つめた迅くんが笑みをこぼす。
「写真のこと詳しくないし、うまく言えないけど、綺麗な写真だと思う。……家の前の道?」
「うん。夜が明けきる前の時間に撮ったんだ」
「よかった。そんな時間に遠出してたら怒るところだった」
「迅くんは心配性だね」
「そう?」
 普通のことだよ、と迅くんは続けた。だから迅くんがこうして迎えに来てくれるのは、彼にとって当たり前の善意で特別じゃない。だってボーダーで、みんなのヒーローだから。それくらいやさしいひとだから。呼んだら来てくれるけれど、呼ばなければ来てくれない。心臓に深く釘を刺す。痛ければ痛いほどいい。その方が勘違いせずに済む。
「ごめんね、呼んでおいて言うことじゃなかった」
「気にしなくていいよ。……本当に、息抜きになってるし」
「ほんとに?」
「ほんとほんと」
「……いつも来てくれるけど、ちゃんと寝てる?」
「いつもたまたま起きてるだけだよ」
 そんな偶然がほんとにあるなら運命みたいだけど、たぶん迅くんはいつも起きてるんだと思う。高校生のころも夜にボーダーが入っていたからと学校に来ないときがあった。大学がないぶんボーダーの仕事を詰め込んでいるのだろう。
「さっきの写真、本部も写ってた?」
「ボーダーの?」
 スマートフォンの小さな画面をふたりで覗きこむ。話を躱されたことはわかっていたけど追いはしなかった。おまえにはわかんないよ、と言われるのがこわくて。
「ほんとだ、写ってる」
 ほんの僅かに黄色味を帯びた空のはてに滲む濃いあお。景色のなかに溶けこんで、はじめからそこにあったように佇んでいる。――なくなったらさみしいかもしれない。その方がよろこばしいことであっても。わたしが迅くんと出会ったとき、この街にはもうボーダーがあった。
「……このあおいろが、いちばんすき」
 夜と朝のあいだの、まばたきのような一瞬に現れるあお。迅くんの瞳の色で、幻のように現れたり消えたりする彼そのものだ。
「それは」迅くんの声が不自然に途切れる。ぷつり、とイヤホンが外れてしまったときみたいに。
 画面から顔を持ち上げると、あおい瞳は遠くを見つめていた。ボーダーがある方角だ。
「……迅くん?」
 感情が掻き消えた横顔にいつか響いた声がよぎる。じゃあね。卒業式。放課後。昼休み。ボーダーへ向かう彼が紡ぐ言葉。楽しそうに言うときもあれば、少しだけさみしそうに見えたときもあった。
「酔い、もうだいぶ醒めてる?」
 わたしを見下ろした顔には笑みが戻っている。
「え、うん……今日はそんなに飲んでないから」
「だと思った」
 話しているうちに大通りへ出た。ここまで来ると夜中でも人がいる。散歩中の大型犬が尻尾を揺らしながら横切った。信号待ちをしている車のブレーキランプがまあるく眩んでいる。迅くんの青い上着は夜の街にぽっかりと浮かんで、見知らぬ人の視線が遠巻きに撫でる。ボーダーの制服はやっぱり目立つのだ。でも、迅くんが私服で来たことは一度もない。これはプライベートなことではないのだと線引くように。
「――ごめん、今日はここまででいい?」
 不意に、迅くんが言った。言うが早いか歩道の際まで寄って、彼が片手を挙げればすかさず一台のタクシーが滑り込む。示し合わせたみたいにぴったりのタイミングだった。
 今日はここまで。はっきりと告げた声に嫌だと言うことは、あるいはできたのかもしれない。迅くんがボーダー隊員でなければ。
「うん、」
 大人しく頷くと、迅くんはもう一度「ごめんね」と声をおとした。だいじょうぶだよと返す。それ以外の言葉は持っていなかった。手招きするようにドアが開く。迅くんはドアを支えながらわたしが乗り込むのを待った。
 しゃがれ声の運転手さんが行き先を尋ねる。それに答えつつ、迅くんが渡そうとしてきた数枚のお札を断った。ただの元同級生が受け取っていいものじゃない。バイトだってしているし、タクシーに乗ることで迅くんの心配をなくせるなら安いものだ――最初から迅くんではなくてタクシーを呼べばいい話なのにね。ごめんなさい。首をもたげた罪悪感が自分のための呼吸を吐き出そうとする。喉まで出てきた言葉を押し込んだ。
「迅くん、ありがとう……その、気をつけて」
 ちょっとだけ驚いたようにあおい瞳を丸めた迅くんは、すぐに微笑む。くしゃりとくずれた、やわらかくて幼くて、どこかかなしそうな。ばたん、と閉じられたドアの向こうで迅くんが口を開いた。
 じゃあね。
 それか――またね。
 迅くんがどちらを告げたのかはわからない。またね、と言ったように見えたのは都合のいい幻だろうか。タクシーが動き出す。ひらりと手を振った迅くんに振り返せばあおい瞳と交わる。夜明け色のそれは静かなひかりを湛えていた。なにか言いたげに、けれどあおに滲むだけで言葉にはならない。明らかにすることがこわいだけかもしれない。
 青色が夜に翻る。迅くんはわたしの家とは反対方向に駆けていく。その先には、当たり前のようにボーダー本部があった。


 ガラスの向こうに景色が流れていく。人も車も街もボーダーも。柔らかなシートに沈みながらかんがえた。ガラスから伝わるつめたさはちっとも頬に馴染まなくて、かすかな震動とともにぴしゃりと叱る。わかっているでしょう。ガラスの向こうで声がした。
 迅くんは出会ったときにはもうボーダーの一員で、街を守るヒーローのひとりだった。今でもそうだ。彼が守るものに、わたしも含まれているかもしれないけれど、でも、わたしだけではない。わたしだけにやさしいわけじゃない。もっと守らなきゃいけないことがあるし、優先することもある。
 それをさみしいとおもうことがいやだった。あたりまえのことなのに。わかっていたのに。あぁでも――どうせおまえにはわかんないよね。囁く声は内側から響く。
 ほろりとこぼれた涙は熱く、ほんの一瞬だけガラスにとけて夜に混じった。




「なんか久しぶりだね」
 がやがやと騒がしい居酒屋で、となりに座ったのは二つ上の先輩だった。短く整えた黒髪とすらりとしたスタイルで女子からの人気が高い。それから今日の主役である新入生からの評判も。四月も半ばを過ぎた新歓飲み会は既に佳境で、まだ十八歳の新入生たちはちらほらと帰り始めていた。わたしもそろそろ帰らなければ終電がなくなってしまう。
「飲んでる?」
 徳利を傾けた先輩に手元のジョッキを見せる。いつもの店とは違う、駅前の安いチェーン店の飲み放題は当たり外れが大きい。これの前に飲んでいたものは薄かったのに、今飲んでいるチューハイは随分と濃かった。まだ半分以上残ってる。
「そっかそっか。最近、飲みにいないしちょっと心配してたんだけど、元気そうでよかった」
「すみません……ちょっと、家の用事と重なっちゃって」
 嘘をつくと胸元がちりりと痛む。ふうん、と先輩が意味深に呟いた。ばれているのだろうか。先輩は観察眼に優れていて、写真も人付き合いも気配りが行き届いているとほかの人たちが言っていた。
 飲み会を断り始めたのはあの日――迅くんがボーダーに向かったあのときからだった。酔って気が大きくなるとまた彼を呼んでしまいそうで。迷惑をかけることが嫌というよりは、嫌われたくないという自己都合なことにまた情けなくなる。逃げたと言っても過言じゃない。
 酔って理性を剥がさなければ電話もできない意気地なしなだけあって、迅くんに連絡を取ることはちゃんと控えられている。一度だけ『誕生日おめでとう』と送ったけれど迅くんの返事は短かった。
 だからたぶん、これが正解なんだろう。迅くんに会いたいのはわたしで、迅くんがわたしに会いたいわけではなかった。
「まあ、久しぶりなんだし飲もうよ」
 飲まないと損だよ、と先輩は笑う。新入生の分も負担するので会費はいつもの倍近い。
「ううん、でも今日は終電までに帰りたくて……タクシーも高いし」
「あれ? 今日はいつものお迎えないの?」
 意外そうに瞳を瞬かせた先輩に苦笑で応える。わたしの〝お迎え〟がボーダーのヒーローであることは誰も知らない。最初の日もサークルの人たちと別れてから合流していたらしい。
「ちょっと……忙しいみたいなので」
「……ふうん。じゃあ送っていくよ。それかまあ、ウチ泊まってもいいし」
「そんなにわたしと飲みたいんです?」
 するりとくちびるから溢れた言葉はもう十分に酔っていた。お酒に強いはずの先輩の頬がさっと赤らんで、それからへにゃりと緩む。
「うん、そうだよ」
 迅くんを思い出したのはどうしてだろう。ジョッキを傾ければ喉も胸も灼けつくようで、つきりとはしった痛みも忘れられそうだった。




 ――ゆらゆら、ゆれている。
 ぼんやりと霞む視界を埋めるのは青色だ。どこかで見たような、迅くんの上着に似ている、けれどちがう。迅くんのあおはもっと、もっとやさしくて、かっこいい。だからちがう。ひと粒、頬をなにかが滑り落ちる。
「あ、起きた?」
 それは声というより振動だった。低く心地よい揺れに瞼を閉じる。ふっ、とだれかが笑った息遣いを感じた。
「寝ててもいいよ……でもちょっと休憩させて」
 衣擦れの音がくらやみに響いた。とすん、とゆれておしりがひんやりつめたい。肩にあたたかなものがふれて、ゆらゆらゆれる世界を支えてくれる。
 とりがー、おん。
 桜の花びらが散る音のように幽かな声が、何故だか彼に思えて仕方ない。ほんとうに小さな囁きは鼓膜が震えたかどうかもわからないのに。
 瞼を持ちあげるのはひどく億劫だった。だってそこに彼がいる根拠はない。夜を駆ける風の音に彼をあてがっただけかも。勝手な思い込みで、夢で、まぼろしかもしれない。――でも。
「……じんくん?」
 声が震える。勝手に込み上げてくる塩水を抑えようとして失敗した。じわりと滴がうまれて落ちていく。瞼をゆっくりと持ちあげた。瞳が熱くて、壊れてしまったようにピントが合わない。滲む視界に見慣れたあおがあった。
「……泣くほど嫌だった?」
 視線が交わる。ポケットを探るような仕草をしたあと、彼は困ったように眉を下げてしゃがんだ。あおい瞳がひたりとわたしを見上げている。
「それとも泣くほどうれしかった?」
 悪戯めいた言葉は、やっぱりなんでもお見通しみたいに、けれどちょっとだけこわがるように紡がれた。いやじゃない。うれしい。ありがとう。声は出なかった。なのに迅くんはやわく微笑む。ぜんぶわかってるよ、って。
 じわ、と新しく滲みはじめたそれはたぶん自己嫌悪のためだった。飲み会を避けて、あんなに気を付けていたのにまた彼を呼んでしまった。
「ごめ、ごめん……」
「なんで謝るの」
「また呼んじゃった、から」
「いやぁ……実を言うと勝手に来た」
「……かってに」
「そう。呼ばれてもないのに、勝手に」
 ぱちりぱちりと視界が瞬く。頬をつねるとちゃんと痛くて、迅くんはベタだなぁと笑みを深めた。




 ふたりで、白線を辿るように歩いた。とりあえず帰ろうか、と迅くんが言ったから。もう酔いはすっかり醒めているはずなのに、少しだけ爪先が浮つく。街はまだ眠っていた。群青をいちだん暗くした、濃い藍の空。静かな、ふたりぶんの足音だけが響く。朝はもう遠くない。
 無意識のうちにこぼした吐息が彼と重なる。指先がしびれて、皮膚はひりつくようだった。いま、わたしと彼の間にあるなにかは、言葉にしてしまえば簡単に消えてしまう気がした。かたちにするとうしなわれるものがあると知っている。迅くんもそれがわかっているみたいに、黙ったままだった。
 よばれてないのに、かってにきた。
 夢と現実の境できいた声を何度も繰り返す。それはまるで、彼がわたしに会いたかったみたいな。でも、ちがう、はずだ。わたしは彼に飲み会の日程なんて教えていなくて、呼び出されない限り迎えには来られない。きっと偶然だ。期待しそうな心臓をぎゅうぎゅうに絞って諌める。そうしないと頭に熱が昇りすぎてどうにかなりそうで。迅くんはやさしいから。街を守るボーダーの、ヒーローだから。たまたま見かけた元同級生を無視できなかった。それだけの――それくらいには、関係があると思っていいんだろうか。
 横断歩道の先で青いひかりが瞬く。まばたきの間に赤くなったそれに足を止めた。車なんて一台も通っていないのに。


 ふっ、と呼吸が夜と朝の隙間にとける。迅くんだった。大人びた、いまの迅くんの笑い方。思わずその顔を見上げれば、かちり、とあおと交わる。呼吸が。それから心臓が。ほんとうにとまった。
「真面目だね?」
「……迅くんだって、そうだよ」
「確かに」
 そろりと視線を外す。渡ろうか、とはわたしも迅くんも言わなかった。それだけでもう、いいくらいだ。いまこの瞬間を切り取って、それで、だれにも手を出せないどこかへ仕舞ってしまいたい。信号が青になるのを待ってから歩いた。
「いつも言ってた先輩、女の人だったんだね」
 ぽつり、と迅くんが言った。目を瞑りながら手探りでふれるような、慎重なささやきだった。いつも言ってた、先輩。わたしにお酒の味を教えて、今日は一緒に飲みたいと笑った先輩。男性かと見紛うほど短く揃えた黒髪も、蠱惑的なアーモンドアイと合わされば艶やかだ。ほかの人が同じ髪型にしたってああはなれないだろう。
「男の人だと思ってた」
「言ってなかった、かな」
「憧れの先輩としか……まあ、あんなかっこいい人だったら憧れるのもわかるけど」
「先輩に会ったの?」
 彼はいつも、わたしがひとりになってから迎えにきた。酔っ払いたちに囃されるのが、そんなつもりはないからこそ嫌だったんだろう。
「うん。立ったまま寝てたから覚えてないだろうけど」
「……寝てたんだ、わたし」
「ぐっすり。起こすのも忍びないくらい」
「だから、背負ってくれて、た?」
「まあね」
「申しわけない……」
「なんならもっかいやろうか?」
「ごようしゃを……!」
「そんなに嫌がられると傷つくなぁ」
「ご、ごめん」
「冗談だよ」
 からかうような声には昔の面影がある。わたしの知っている彼が、まだそこにいてくれることがうれしかった。
「おれを呼ばなかったのは、先輩に泊めてもらうつもりだったから?」
 そっと窺った横顔は静かだった。薄っすらと被せられた笑みが感情を隠す。問いに頷くことはかんたんだ。だって嘘じゃない。でも。
「……迅くんは、ヒーローだから」
 だから。呼んじゃいけない、でしょう?
 掠れて消えていく声は正しく言葉を紡げただろうか。迅くんは、みんなのヒーローだ。邪魔になりたくなかった。なんの役にも立てない小市民がいちいちヒーローの手を煩わせる。嫌うには十分な理由だろう。会えないことよりも嫌われることのほうが恐ろしかった。
「最初に呼んだのはそっちなのに、今更?」
「……うん、今更、です。ごめんなさい」
「怒ってないから。――嫌ってもない」
 あおいろは、やっぱりぜんぶお見通しみたいにやわく細まった。最初に迎えにきてくれたときの、あの朝焼けのなかと同じように。窓ガラス越しに見た笑顔にもすこし似ている。
「……おれはヒーローじゃないよ。ほら、嵐山ほど優しくもかっこよくもないし、どちらかっていうと裏方のが性に合ってるし。だから、呼んでいい。いつでも」
 どこかで――夏の眩い陽射しが照り返るグラウンドから日陰に逃れた先できいた言葉だった。あのときは首を振って否定したけれど、迅くんは、ほんとうは頷いて欲しかったのかもしれない。わたしにはヒーローに見えていても、迅くんには自分がヒーローに見えていないんだろう。
「そう、なんだ」
「なりたい時もあったけど、まあ無理だったから諦めてる。でも、おかげでいいこともあったよ」
「どんな?」
「迎えにくる方を選べた」
 さらりと、言う。その顔に浮かんでいる笑みは、たぶん、ほんとうだった。
「じんくん、は」
 声が震える。朝靄のなかのぼやけた街の輪郭を思い出した。夜がはてに引き上げて、朝はゆるやかに広がる、その間際、一瞬のあおいろ。ずっと見ていたかった景色。彼によく似ていた。
「……迅くんは、どうして、迎えにきてくれるの?」
 なにかが終わってしまうような気がしていた。確かめようと触れたら、本当はただの幻で掻き消えてしまうんじゃないかとか。もう会えなくなるんじゃないかってずっとこわかった。でも――迅くんは来てくれたから。勝手に。呼んでもいないのに。それがただの偶然だとしても、また会えたから。
「……やっぱり思い出せない? もう言ってあるんだけど」
「……最初のとき?」
「うん、しこたま酔ってて記憶飛ばしてた日」
 迅くんは困ったように笑っていた。下がった眉と対照的に、くちびるはもにょりと笑みをつくったり、引き結んで真顔に戻ったりする。
「忘れてるなら、それでもいいやって思ってたはずなんだ」
 そろりと外された視線を追う。東の空は僅かに明るくなりはじめていた。
「むしろそっちの方が幸せかもしんない、とか。……でも、だめだったから、まあ、そういうことなんだろうね」
「そういうことってどういうこと」
「……言わなきゃだめ?」
 ううん、ささやきながら首を横に振った。言わなくてもいい。ふれるだけでいい、かたちにしなくていい。いつかは欲しくなるかもしれないけれど、今はこのままでも。ただとなりに並んで歩くことが許されるなら、それを迅くんも望んでくれているなら――きっとそれでじゅうぶんだ。彼がここにいるのは夢でも幻でもないから。
「ううん、迅くん。迎えにきてくれて、ありがとう」
「どういたしまして」
 それきり、二人して黙って歩いた。会話がなくてもよかった。ほとんど重なる足音をずっと聴いていたい。不意に、かえりたくないなぁと思ったけれど、面映さが勝って言葉にはしなかった。それでいい。仕舞いこんだ言葉たちは、けれど捨てたわけではない。
 こっそりと見上げた横顔は大人びていて、ボーダーの青い制服がほんとうによく似合う。ああ、でも――真っ黒い詰襟だって、似合ってないわけじゃなかった。やわらかな髪色が映えて、瞳のあおが際立つようで。だから、ずっと目が離せなかったし、憶えていた。
「……あのね、迅くん。ひとつだけ言っていい?」
「うん?」
「ヒーローでも、ヒーローじゃなくても――迅くんはやさしくて、かっこいいよ。わたしは、ずっと、そう思ってるよ」
「……ありがと」
 もうすぐ夜が明ける。朝とも夜ともつかない、ほんのひとときのあおが世界を染めあげる。わたしと彼のためではなく自然の摂理として。ただそれだけの、きっと特別でもないことが、それでもうつくしいとおもう。その理由を知っているから視界が滲む。
「夜が明けるね」
 低く掠れるような声がささやく。おなじものを見ていることがうれしくてくちびるがゆるんだ。
「迅くんの色だね」
 あおを見つめる。迅くんは一瞬息を詰まらせて、それから「だといいな」と、はにかんだ。



epilogue
「悠一くんって心配してるときは目を逸らすよね」
 どくりと跳ねた心臓が、肋骨の内側にあってよかった。彼女からは見えないから。頭のなかの不安がかたちになる未来を見たくないと、目を背けた自覚はある。全て視て選ぶ権利を持つくせに。咎められた気がした。
「そういうところ、かわいくてすきだな」
 まばたきをひとつこぼせば「かわいいなんて怒った?」と微笑む彼女が夜明けに染まる。
 ――怒ったよ。嘯けば彼女が慌てて謝る。その声を聴きながら、小さくちいさくわらった。


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