カルピスビール

 母とふたりで暮らした古いアパートを、迅悠一はときどき思い出す。
 十歳ごろまで住んでいただろうか。広くはなかった。けれどていねいに手入れのされたアパートは隅々まで掃除が行き届き、一階に住む大家のおじいさんは迅たちにやさしく接してくれた。
 古くはあっても、住み心地のよい家だったと思う。日当たりのよい窓辺で昼寝した迅が目覚めれば、となりで母が眠っていることもあった。
 それから――川縁の桜並木。特等席のベランダから眺めれば、春から秋までの間は対岸があることを忘れてしまうほど見事だった。
 隣室のみょうじなまえは、その桜並木に惹かれて引っ越してきたのだと言っていた。

 母の帰りを待っていた。日没を控え、雲は薄紅に染まる。満開の桜と夕日が、水彩でのばしたようにとけあっていた。
 椅子をベランダに引っ張り出して、その上に立つ。見下ろした桜並木の下に母が現れるのを待った。何時に帰ってくるのかは知っていたけれど、少しでもはやくおかえりと告げたくて。
 やわらかなキャラメル色の髪を春風がさらう。夜の気配を漂わせた風はつめたく、桜の花びらがふわりと舞い散っていく。桜の花は好きだけれど、散るさまを見ていると心臓の横にぽっかりと穴が空いたような気持ちになった。


 母とふたりで桜並木を歩くときは、宙を舞うひとひらを掴んで遊ぶのに。――いまここに、母がいないから、さみしくなる。
『プレゼントはなにがいい?』
 やさしい声が耳の奥でこだまする。
『なんでもいいよ』
 迅は答えて、困った顔をした母に『ぼんち揚げがたくさんたべたい』と無垢に笑いながら続けた。
 ほんとうは、叶えたいことはたくさんある。新しいゲームがほしい。お腹いっぱい焼肉とかケーキとかおいしいものを食べたいし、どこか旅行にだって行ってみたい。それから、もっと、いっしょにいたい。そのどれもがわがままだとわかっていて、だから言葉を飲みこんだ。口にすれば、無理をしてでも叶えようとしてくれると知っていたから。
 ――はやくおとなになりたい。
 だれも叶えてくれなさそうなそれを、数年前まではクリスマスにも七夕にも願っていた。母を守れるようになりたかった。今の迅では、きっとなにもかもが足りない。
 桜並木の向こうから、誰かが歩いてくる。つ、とかかとを持ち上げて見通せば、しかし、それは母ではない。
 小さな男の子と手を繋いだ女性が、桜を見上げながら歩いていく。その視線が上向き、迅を見つける前に顔をひっこめた。塀の内側に隠れるようにしながら、椅子のうえで膝を抱える。ちいさく体を抱きかかえれば、胸の奥の痛みもすこしだけ紛れた。
 隣室のベランダが開いたのは、そんなときだ。
 からから、とアルミサッシのうえをガラス戸が滑っていく。
「あぁ、やっぱりきれいだね」
 ぼんやりと、どこか遠くのだれかに手向けるような言葉。風にまぎれてしまうような幽かな声だった。
 そっと顔を出して伺えば、知らない女性が缶ビールを手に出てくる。彼女は桜並木をゆるりと見渡し、そして迅にも気付いたようだった。
「――、こんにちは」
 彼女の頬に、すこしだけ驚いたような、ぎこちない笑みが浮かぶ。やや低めの声はさらりと耳を撫でていった。
「……だれ?」
「ああ、今日この部屋に引っ越してきて」
 迅が警戒していることに気付いたのだろうか。彼女は慌てた様子で付け加えた。
「みょうじなまえ、といいます。お名前を聞いてもいいですか?」
 ぱちりと、瞬きをひとつ。くるりひらりと花弁がおちるようにめまぐるしく変わる世界が映り込む。瞼を持ち上げ、もう一度、目の前のみょうじをみた。
 危険は、ない。
「……迅、ゆーいち」
 返事があったことに安堵した様子でみょうじが頬を緩める。伸びた指先が缶ビールのプルタブを引っ張った。
「迅くんね。よろしく」
「なんでひっこしてきたの?」
 季節は桜の花が咲くころ。四月に入って一週間以上だ。新生活をはじめるにしては一拍遅い。このアパートに人が入居するときは、たいていが三月だった。
「ええっと……うん、私は三門大学に通っているんだけど、三年生になってキャンパスが変わって、それで引っ越してきたわけです。引越し屋さんが混んでてちょっと遅くなったけど、桜には間に合ってよかった」


 ほんとうにうれしそうに目を細め、みょうじは缶ビールにくちづけた。くぅ、といちだん高い声が夕日空に響く。
「ふうん」
 手すりをつかって頬杖をつきながら、迅は注意深く隣を伺う。みょうじが引っ越してくることは知らなかったが、そう悪い人間ではなさそうだ。さらさらの黒髪が春風にあそばれるのも構わず、喉を鳴らしてビールを飲んでいる。
 迅もみょうじも、しばらく黙って桜並木を眺めていた。相変わらず風がとおるたびに花びらは舞い散り、空は刻々と群青が滲む。
 ふと隣を見れば、まばゆそうに桜を見つめる瞳は遠くへ向けられていた。桜並木の向こう側。見えないはずの対岸を、みょうじは見つめている。
 部屋でなにか音楽をかけているらしい。途切れ途切れの音が耳に届いたけれど、聞き覚えはなかった。迅のしらないメロディを、しらない声が歌っている。
「迅くんは、だれかと暮らしているんだよね」
 息継ぎの片手間のように、みょうじが迅に問いかけた。
「うん。母さんと」
「……そっか。迅くんはいくつ?」
「はち、九歳」
「うわ、倍以上ちがう」
 何がおかしいのかからりと笑って、それからコンクリート塀のうえに缶を置く。かこ、と澄んだ音からして、半分は飲んだらしい。
「みょうじさんはなんさい?」
「ハタチだよ。にじゅっさい」
「ふーん」
 くてん、と。みょうじが迅の方を向き直り、手すりに身を預けた。外へ投げ出すような腕がゆらゆらと揺れている。母よりも日に焼けた肌だった。頬が赤らんでいるのは夕日のせいなのか、アルコールがもう回ったのか。
「お母さん、何時くらいに帰ってくるの?」
「たぶん、七時くらい」
「まだだいぶあるね」
「いつもより早いよ。今日はおれのたんじょーびだから、早く帰ってくるって」
「えっ 誕生日?」
 丸くひらかれた瞳が迅を見つめている。「うん」と、事実だけを短く返した。
「それはおめでとう。それじゃあ今日は私の引っ越し記念日で迅くんの誕生日なわけだ。ふふ、いいね、とびきりすてきな感じがする」
 空を仰ぐように缶ビールにくちづけ、みょうじが笑った。やっぱりだいぶ酔っているのかもしれない。
「ただのぐうぜんでしょ」
「おめでたいことには変わりないよ。よし、もう一本飲もう」
 一本目は空にしたらしい。みょうじはいそいそと部屋に引っ込んだ。
 風にのって物音がする。ばたん、とこれはたぶん冷蔵庫を開ける音。それから――ガムテームを剥がす音だろうか。くしゃくしゃと紙を丸め、次に水音。ぺたぺたと裸足で歩く音がかすかに響く。
 ややあって、ベランダに再び姿を見せたみょうじの手には缶ビール。それから、器用にもカルピスの瓶も一緒に持って、もう片方はグラスと炭酸のペットボトルを掴んでいる。
「カルピスソーダはすき?」
 エアコンの室外機の上に持ってきたものを置き、みょうじが弾んだ声で言った。
「すき、だけど」
「じゃあ乾杯しよう。……あっ、いや、人からもらったもの食べちゃだめとか言われてるかな?」
「言われてるけど、べつにいいよ。みょうじさんむがいそうだし」
「褒められてるって思うことにするよ」
 みょうじは肩を竦め、あいさつのときが嘘のようにやわく笑う。アルコールのせいだろうなというのは、飲んだことがなくてもわかった。今ははっきりとわかる赤い顔がなによりも雄弁だ。
「……お酒っておいしいの?」
「子どもが飲んだって美味しいものじゃないよ、特にビールはね」
 グラスにカルピスの原液、それから炭酸を注ぐ。しゅわりと泡がはじけた。
「少なくとも今の迅くんなら、カルピスのほうが美味しいと感じると思う」
 精一杯に腕を伸ばし、みょうじが迅にグラスを手渡した。大人しく口をつければ、母がつくるものよりも濃いめの味だが、慣れた味には違いない。冷たいそれをこくりと飲むと、胸の奥に隠した埋火がおとなしくなった気がする。
 みょうじのほうも新しい缶のプルタブを引っ張った。
「乾杯」
 とぷん、と缶を回すようにゆらして、みょうじが微笑む。迅は手にもったグラスを見下ろし、それから胡乱な瞳で彼女を見た。
「かってにしないでよ」
「ごめん。それじゃあもう一回――誕生日おめでとう」
「……ありがと」
 ふたつのベランダの間には地面へ落ちる隙間がある。軽く空に掲げるだけの乾杯をして、ふたりは再び缶とグラスにくちづけた。
 ビールは、一度、町内会の花見のときにこっそり飲んだことがあった。ちっともおいしくなかったのは記憶に新しいが、みょうじはそれをこのうえなく美味しそうに飲む。見つめていれば目が合った。
「……迅くんが私の歳になるころには美味しさもわかるんじゃないかな――今はまずいと思っていても」
 悪戯めいた笑みは、迅がこっそりビールを飲んだことを知っているようだった。それこそ過去が見えない限り、そんなはずもないけれど。
「ちなみに。ビールをカルピスで割ると、かなりおいしい」
「うそでしょ」
「ほんとほんと。いつか大人になったらやってみるといいよ」
 ざあ、と風が鳴った。みょうじの笑みに桜の花弁が重なり、迅が持つグラスにもひとひらが舞い込む。「うわ、部屋まで入った」部屋を振り返ったみょうじが情けない声をあげた。


 みょうじは、歳の離れた迅をかわいがりながらも、対等に扱っていたように思う。母にもいつのまにか自己紹介を済ませ、知らない間に仲良くなっていた。


 みょうじが家庭教師のバイトをしていた、というのも大きかったのだろう。仕事で遅くなる日は預けられるようになり、宿題を見てもらっていた。そんな日はたいてい、『私に彼氏がいなくてよかったね、悠一くん』と笑うみょうじに『言ってて悲しくなんないの?』と返してカルピスソーダを飲んだ。
 テレビを見たり、ゲームをしたり、買い物に出かけたこともある。 みょうじを夕飯に誘い、三人で食卓を囲む日もあった。

 迅にとって、みょうじなまえはもっとも近しい他人だった。家族でも友達でも仲間でもなく、良き隣人だった。


 迅は桜並木の下を歩き、なだらかな土手に腰を下ろす。伸びた枝の下に入ってしまえば、彼の岸もよく見えた。薄紅の桜の合間から見える空は深い群青。灯りの少ない街をやさしく慰めるように星が瞬いている。
 玉狛支部で誕生日を祝ってもらったあと。未成年たちが部屋に戻るなり、林藤と木崎が酒を持ち出してきた。やっと飲めるな、と差し出されたグラスを断る理由はひとつもない。まずは軽いやつから、と注がれたサワーを飲みながら、ふと彼女のことを思い出した。
『いつか悠一くんとお酒を飲みたいなぁ』
 そう言って笑っていた。季節も、どうしてそんな話をしたのかも覚えていない。声も笑みも霞がかかったように朧げだ。けれど、母と彼女と過ごした日々は、今も迅のこころに残っていた。こころのやわらかいところで、さみしさと寄り添うように微睡んでいる。
 コンビニのビニール袋に入った缶ビールを取り出した。プルタブを引っ張り、いつか彼女がしていたように飲む。舌をさすようにはじける炭酸と、苦味。それらが喉の奥まで残って、やはり美味しいとは思えない。
 やっぱりだめか。
 林藤いわく、缶ビールはそのまま飲むよりグラスに注いだほうがおいしいらしいが、そうしたところで同じだろう。迅はまだ、ビールを美味しいとは思えない。
 ちいさく笑って、ビニール袋からカルピスを取り出す。にがいにがいと思いながらもう少しだけ消費して、缶にカルピスを注いだ。揺らすようにしてふたつを混ぜて、そっとくちづける。
「――……うん、『かなりおいしい』よ、なまえさん」
 夜風がかすかに流れる。ひとひらの花弁が宙を舞い、迅の髪をやさしく撫でた。


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