チョコレートの祝祭

 百貨店で忙しい時期は? そう訊かれたら、答えは中元と歳暮に年末年始のセールと初売り。そして近年はバレンタインデーも入るだろう。フロアを埋めるチョコレートの香りと女性客の姿はもう慣れた。消費は女性に支えられているのだとつくづく感じる。
 年を重ねるごとに催事の規模が大きくなっているのは、もちろん売上がいいからである。チョコレートは客単価が高いわりに省スペース。売らない手はない。それは俺もわかる。だが歳暮と年末年始の疲れを引きずる時期にこの忙しさは、ちょっとどうかと思う。つまりしんどい。三十路は働き盛りとはいうが、体は衰えてきている。確実に。休みがほしい。無理だろうが。
 繁忙期の休みの少なさといったら、彼女に振られる理由にもなったくらいだ。数年前のバレンタインのことである。忙しさと疲れを理由に放っておいたのは俺なので何の文句もいえなかった。手切れ金代わりに渡されたチョコレートの味も覚えていない。でもブランドだけは覚えている。けっこういいとこのだったし、何よりも毎年我が百貨店に出店してくださるので。見かけるたびに思い出して気持ちが沈むからやめてほしいが、売上はいいし長い付き合いだし俺個人の事情だし。ままならない。世の男女はバレンタインを契機に結ばれるほうが多いのに、なんだって俺は。恨みがましい気持ちが胸をよぎって、こほんと咳払いをひとつ。
 ――切り替えよう。仕事中だ。
 準備と裏方仕事が主の俺でさえかなり疲れるのだから、立ち仕事の接客を担当する同僚は本当に大変だと思う。そんなわけで。
「お疲れさま」
「お疲れさまです、佐々木さん」
 売り場にお客様が途切れたタイミングを見計らい、後輩に声をかけた。疲れているだろうにどんなときも笑みを絶やさない。彼女のことは歳下ながら尊敬している。
「変わるよ。少し休んできな」
「え、でも……」
「昼休みまだだろ」
「す、すみません……ありがとうございます」
 先輩風を吹かせながら仕事を奪う。俺もまだ昼休みはとれていないが、朝ごはんをたくさん食べたのでしばらく平気だ。
 ぐるりと売り場を見渡す。やはり女性客が多いが、最近は男性の姿も増えてきた。逆チョコ、スイーツ男子などの影響だろう。義理チョコという儀礼文化は縮小しつつあるが、自家需要の伸長と新たな顧客層の発掘があり、トントンといったところだ。男性向けの企画が強化される日も近いと思われる。

 ――大学生かな。
 ふと目が奪われたのはやわらかな茶髪の青年。キャメルのトレンチコートのせいか大人びて見えるが、二十かそこらだろう。青い瞳は何かを探すように動いていた。
「何かお探しですか?」
「え、」
 声をかけると青年が驚いたように瞬きを繰り返す。しばらくしてからやっと焦点が合ったような気がした。女性客と女性店員に恐れをなして逃げるようにフロアを去る男性客もいないわけではない。自分がフロアに立ったときはなるべく声をかけるようにしていた。
「あー……そんなとこです」
「よろしければお手伝いしますよ。ご自分用でもご贈答用でも」
「まあ、贈る用、ですかね」
 言いながらも青年はすれ違う人にちらりと視線を遣る。その瞳が何を見つけようとしているのかはわからなかった。わずかに戸惑いが感じられる。もしかすると、チョコレートを買おうという気持ちはなかったのかもしれない。ただ物珍しさに歩いていただけというのも有り得る。
「……あれって、もらって嬉しいものですか?」
「男性視点にはなってしまいますが、私たちがもらってあれだけ嬉しいんです。女性だからといって、チョコレートをもらって嬉しい気持ちはそう変わらないのではないでしょうか」
 振られたときはしばらくトラウマになってチョコレートを見るだけで逃げ出したくなったが、今は普通に嬉しい。職場柄、試食のあまりとかノルマのあまりとかそういうのばっかりなのは少し悲しいが。あれ以来彼女はいない。もう独身貴族でもいいかな、とか思いつつも、自分より歳下の青年にそんな世知辛さは語れなかった。
「なるほど……」
 彼にチョコレートを買う気がなかったとしたら、俺は鬱陶しい販売員という立ち位置になるわけだが。余計なお世話だったろうかと思っていたところに、「なにかおすすめあります?」と訊いてくれるこの青年は、たぶん優しい子だ。
「贈るのはどんな方ですか?」
 きっと贈る予定はなかっただろうに。でも、予定はなくても贈りたいと思うような相手がいてくれてよかった。しんどい尽くしのバレンタインの楽しみは、やっぱり、人と人の縁が結ばれるお手伝いができるところだと思う。ちょっとキザ過ぎて恥ずかしいので誰にも言ったことはないけど。
「やさしくて、いつも笑顔で、元気がもらえるような……」
「……」
「……あ、いや、そうじゃないか」
 ゆっくりと息を吸い込めば無声音が響く。「そう――ですね。性別とか、ご年齢とか……」あー、と小さな声を漏らした青年の頬が淡く染まる。よく見れば青年の目元には薄く隈があった。わかる、疲れてるときって頭のネジがゆるくなるよな。
「二十代の女性です」
 簡素な答えがむしろ微笑ましい。青年の方もまだ照れが残っているのか、頬の熱は引いていないようだった。
「なるほど。ご予算などはお決まりですか?」
「あんまり高いと気を遣わせるので……」
 言いつつ、青年が陳列棚に視線を彷徨わせる。「かしこまりました」「今ので?」驚きの声には笑みを返す。接客してると視線には敏感になるのだ。
 チョコレートを贈る相手はおそらく交際相手ではないのだろう。かといって義理チョコでもない。女性がよろこぶチョコレートということなら女性の販売員と代わったほうがいいのかもしれないが、この優しい青年の力になりたくなった。あと単純に他の人の手が空いていない。バレンタイン催事は戦場なので、助けの声が通るとは限らないのだ。青年には俺に見つけられたのが運の尽きと思ってほしい。
「基本的には、奇を衒わず定番を選ぶといいですよ。フレーバーも多種多様で、好みが分かれますからね」
「あー……それは大丈夫だと思います。味が好きかどうかはわかるので」
「それは素晴らしい」
 自信のありそうな答えに、すごいなぁ、と素直に感心してしまう。俺は彼女の食の好みなんて殆ど知らなかった。だから振られたんだろうとも思う。
「でしたら、おすすめはこのあたりのブランドですね」
 店側から委託された商品を並べたコーナーは、自社店員が接客を行うカウンターよりも値ごろ感のあるものが揃っている。そのなかでもこのあたりは『義理』より誠実さが伝わる『感謝チョコ』として売り出しているものだ。「へぇ」と青年が商品棚に近づく。じっ、とその視線が何かを見つめる。チョコレートでも、パッケージでもないどこかを――見ているような気がした。

「――これにします」
 そう言って青年が手にとったのは、シンプルな包装が上質感のあるボンボンショコラの詰め合わせだった。ミルクにビター、それからプラリネ、カフェ、オレンジ、と定番の組み合わせがあって、ジンジャーは少し珍しいだろうか。「かしこまりました。それ、口どけがいいショコラなんですよ」俺が交渉した店の商品なので食べたことがある。自分が買い付けてきた品を目の前で選んでもらうのはやはりうれしく、接客を請け負うのはそういう魂胆もあった。
「お会計させていただきますね」
 ちょうどレジも空いたので案内し、レジ打ちはパートの奥様に任せる。こればっかりは奥様方のほうが手早い。お釣りを受け取ったことを確認してからお渡し用の袋も添えて青年に差し出した。
「ありがとうございます。……佐々木さん」
「え、あ、はい、なんでしょう」
 どうしてこの青年が俺の名前を、と思ったが、名札をしているので驚くことでもない。気を取り直して尋ねれば、青年はやはり何かを――ここではないどこかを見やってから、ちいさく笑った。
「声をかけてもらえてよかったです。で、お礼ってわけでもないですけど……今日は仕事が早く終わってもちょっと残ってるといいことあるかもしれません」
「いいことですか」
「えぇ――おれのサイドエフェクトがそう言ってます」
 サイドエフェクトってなんだろう。よくわからないが、本音を言えば仕事がないならさっさと帰って寝たい。でも、この青年の瞳を見ていると、不思議とそうしたほうがいいような、妙な説得力がある。
「ありがとうございます。そうしてみます」
 まあ、そもそも仕事が早く終わるかもわからないわけだし。とりあえずそう答えてみれば青年の顔に不敵な笑みが浮かんだ。
「いいバレンタインになるといいですね」
 いや、それは俺の台詞なんだが。「お客様も」笑みを交えて返せば、青年は踵を返してフロアの人混みに加わる。あたまひとつ高い背丈のせいで紛れてしまうことはない。
 ――彼はやっぱり、チョコレートでも買い物客でもないなにかを見ているような気がしたが、その正体はわからなかった。


 ほんとうに仕事が早く終わった。バレンタイン催事中とは思えないが、まあこんな日もあるだろう。
『ちょっと残ってるといいことあるかもしれません』
 昼間の青年の声がよぎり、どうしようかなとバックヤードの壁に背を預ける。明日の準備にしたってもう終わっているわけだし、することは特にない。
「――っ佐々木さん!」
「ん?」
 名前を呼ばれた方へ顔を向ければ、いつも笑みを絶やさない後輩がつかつかと近寄ってくる。きれいに結われた髪はすこしほつれ、化粧も落ちてきているのか顔が赤い。いや化粧のことを言うのは無粋か。がんばった証拠だ。
「お疲れさん」
「おつかれさま、です。あ、あの」
 珍しく震える声に首を傾げていれば、「これを、」ずいっと差し出されるのは見覚えのある紙袋。あの、手切れ金代わりの――けっこう、いいとこの。間違っても義理とかに選ばれるようなものでは、なく。
「え」

 あのブランドには申し訳ないが、チョコレートの味はやっぱり覚えていない。でもたぶん、しあわせの味がした。


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