絢爛なる春に

 冬の終わりがやっと見えてきた。春を告げる鳥の声に微笑みをひとつ浮かべて、迅悠一は朝靄のなかを歩いていた。彼女はまだ寝ているだろうか。くあ、とあくびが漏れる。遠く離れた土地に住む彼女とは、電話で声を聴くぐらいが精々だ。会える日は少なく、だから頭の中で想像をくゆらせて、さみしさを訴える心を慰めながら生きている。
 一歩、また一歩。目覚める前の街に、春の気配が少しずつ満ちていく。梅はとうの昔に咲いていた。もうそろそろ、散ってしまうかもしれない。
「……なんだっけ」
 漏れ出た呟きは、頭によぎった一瞬の違和感。いいや既視感。梅が散る。そのことに対して、なにかが頭の奥に引っかかる。
「……ああ」
 思い出した。へらりと笑う。群青の空の縁が金色に光って、うすいうすい水色が広がっていく。あまい匂いは、まだがんばっている梅の香りだろうか。
「梅は、こぼれる、だ」
 いつだったか彼女が教えてくれた。花の終わりは、花によって言葉が違うのだと。彼女はうつくしいことばが好きで、そんな彼女が話すことばが迅は好きで。
 青い瞳をそっと細めた。回想の中の彼女が、覚えたばかりのことばを迅に聴かせてくれる。あれはいつのことだったろう。でもきっと、春だったはずだ。梅がこぼれる季節。彼女の誕生日近く。ちょうど今頃。
 次はいつ会えるだろうか。またたく視界に未来が映る。ときには厭わしいそれも、たまにはいい仕事をしてくれる。
「……なるほど、なるほど」
 サプライズ。プレゼント。浮かんだイメージに笑みがこぼれ落ちていく。それは再会の未来。
「おれの誕生日はまだ先なんだけどなぁ」
 今日はきみの誕生日だってのに。未来はもう先のことを迅に視せてしまって。こころがふわりと軽くなる。
 ポケットに入れていた端末が震えた。彼女からのメッセージ。ありがとうと、一ヶ月後を楽しみにしててと。迅が、その未来をもう視てしまったこと、彼女は知らない。
 端末を動かして、彼女にメッセージを送る。おはよう。それから、
「何度でも言うよ。誕生日おめでとう」
 ああ、はやく、はやく春が来ればいいのに。
 梅がこぼれれば、次は椿。椿が落ちれば桜が咲いて、桜が散るころにはきみに会える。絢爛なる春が、きみとやってくる。
 迅は今日も明日も、未来を視て、視て、視て。その日々に疲れ果てたときに、しあわせを願ってくれたひとがいた。春の風のように穏やかに、するりと迅を撫でていった。いとしい、ひと。
 春を台無しにするような、無粋なトリオン兵に刃を突き立てる。この日々も、きみがいきるみらいを守れるのなら本望だ。


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