幽かな夢を見る

 これは何もできない幽霊の話だ。


 わたしはゆらゆらと漂いながら、床に座り込んだ少年のつむじを見下ろしていた。灯りの落とされた暗い部屋には少年しかいない。『わたし』は、一応いるけれど、いないのと同じだ。彼にわたしはみえないし、わたしは彼に触れられない。なにせわたしは、いわゆる幽霊というやつだから。それもひどくちっぽけで、弱々しい、『世界』というものへ干渉する権利を一切うしなっている。
 世界になんの影響も与えられないちっぽけな幽霊が、それでもこうして『わたし』を保っていられるのは、きっと世界になんの影響も与えられないからだった。
 例えるならわたしは空気のようなもので、世界は大気。『わたし』という空気は、小さな小さなガラス瓶に入っている。いやもっと脆い。シャボン玉ぐらいには、きっと脆い。それが生きた身体を持たないわたしの儚さだ。『わたし』という空気は、その膜が破れれば『世界』という大気にあっという間に混じって、散り散りになって、とけあって、うしなわれる。
 だからわたしは何かに触れられない。もっといえば、触れてはいけないのだ。シャボン玉はあっという間に割れてしまうから。これは死んでもなお残る生存本能なのか、それとも弱々しい幽霊になってしまったという結果論なのかはわからないけれど、『干渉できない』というのは、『わたし』を保ってくれた。世界に干渉できないということは、世界にも干渉されないということなのだ。

 覚えていることはあまり多くない。今の『わたし』について、わかっていることも多くはない。享年は、まだ、おとなになる前くらい。生前のことについては、ひとまず女の子だったことは確か。名前は覚えていない。誰からも呼ばれることのない名前を忘れるのは容易かった。いや、誰からも喚ばれないために、名前を忘れたのかもしれない。そんなことも忘れてしまったくらい、おそらくは長いこと、幽霊をやっている。時間の感覚もない。なぜなら、わたしは時間の流れとは完全に切り離された、幽霊だから。
 わたしは、おそらく死んだときのままのわたしだ。死んでからいくぶんか時間が経ったから、幽霊として存在することによって、もしかしたら、ちょっとだけ変わっているかもしれないけれど。でもこの世界に生きているわけでもないから、それは大げさな変化ではないのだと思う。世界からなにかを受けて、なにかが変わることは、生きているものの特権だ。

 それでも私は世界を見ることができる。聞くことも嗅ぐこともきる。触ることと味わうことはできないけれど、まだ心というべきものはわたしの中にあって、感じることはできた。
 少年の、つむじを見つめる。彼のことはずっと前から知っていた。彼はわたしを知らないけれど。

「……、……」

 そういえば、『ハリー・ポッター』でホグワーツ城のゴーストが万人に見えるのは、そこにいるのが魔法使いだからだろうか。それとも、ゴーストの生前が魔法使いだからだろうか。どちらにせよ、わたしは魔法使いではなかったし、少年も魔法使いではないから、気にしたって仕方ない。でも、ちょっとだけ、もしそうだったのならと思ったのだ。
 彼にわたしがみえたなら。
 彼にわたしの声が届いたなら。
 わたしが彼に触れることはできないにしろ。
 わたしは彼のことを、慰めてやれただろうか。

 ――悠一くん。

 と、生きているものにはきこえない声で、そっと名前を呼んでみた。迅悠一くん。それが、わたしが浮かぶ空中のちょうど真下に座り込んで、顔を伏せて、泣いている男の子の名前だった。彼が座ってから、彼の真上に漂ったのはわたしなので『座り込んで』というのは、ちょっと適切な表現ではなかったかもしれない。
 泣いている理由は知っている。彼のお母さんが亡くなったのだ。彼のお母さんのこともずっと前から知っていた。彼女は、わたしのみえる限りでは幽霊にはならずに天に召された。天に召されるものなのかは知らない。もしかしたら幽霊になっていて、今もこの部屋にいるかもしれなくて、彼がわたしを知覚できないように、わたしも彼女を知覚できないだけなのかもしれないけれど。
 でも、彼女が幽霊になったか、なっていないのかは、さして重要なことではない。明確なのは、いま、悠一くんがひとりだということだった。幽霊がいてもいなくても、人はひとりだ。孤独になるのは、さみしい。

 ――悠一くん。

 手を伸ばして、そっと頭を撫でてみた。もちろん、この世のあまねくものを通り抜けるからだのことは十分にわかっているから、撫でるように手を動かしただけだ。自分の頭を幽霊の手が通り過ぎたら、なにも感じないとしてもちょっと気分が悪いだろうから、隙間をあけて。わたしの動きは空気も揺らせないけれど、一応の気遣いだ。気遣いもなにもないことはわかっている。わかっているんだ。
 耳をすませば、彼がか細く囁く声がきこえてくる。もうずっと繰り返しているその言葉に、眉を下げて、くるりと空中で身を翻した。彼の頭と同じ高さに漂って、その声をきく。

「おれのせいだ」

 きみのせいじゃない。と、それをわたしがどれだけ言っても、彼にはきこえないし、だから、救われることもない。彼は自分で自分を追い詰めて、おまえがわるいのだとひどい言葉をぶつける。誰も彼を糾弾しないから、自分でそうしているのだ。自分のことを、殺したいくらい憎いのだ。

「かあ、さんが、しんだのは……おれの、せいだ」

 なにもできない。幽霊だから。世界にひとつも、一瞬たりとも干渉できない、『わたし』であることを保てるだけの、ちっぽけな幽霊だから。

「……おれが、ころした」

 きみにわたしの声がきこえたなら。どこからか響く不気味な声に、その苦しみを一瞬でも忘れてくれただろうか。
 きみにわたしの姿がみえたのなら。人様のお部屋の空中に、我が物顔でゆうゆうと漂うわたしをみて、びっくりしてくれただろうか。おれのせいだと繰り返す口をあんぐりとあけて、惚けてくれただろうか。
 わたしは、とにかく、きみに顔をあげてほしいのだ。こっちを向かなくてもいいから、お母さんはおれがころしたと顔を伏せているきみに、窓の外に広がる星空をみせてやりたいし、もうすっかり沈んでしまったけれど、今日のとてもきれいな夕日だってみてほしかった。部屋の外できみが出てくるのを待っている〝最上さん〟にも会ってほしい。
 わたしは、幽霊であること以外はいたって普通の人間だ。人間だった。家族は置き去りにしたほうだし、こんなときになんて言ってやれば彼が救われるのか、そもそも救えるのかもわからない。
 この声がきみに聞こえたって、この姿がきみに見えたって、きみにとってはなんの意味もないのかもしれない。でも、顔をあげてくれるきっかけくらいには、なると思うのだ。不気味な声が。半透明なからだが。きみの気を引く理由になって、きみが自分を責めるのを一瞬停止させて、別のことを考えられる理由になって、部屋の外に出れる理由になるのなら。
 ――なれたなら、よかったのになぁ。


 静かな部屋だった。彼がかさついた声で、呪詛にも似た言葉を自分に向ける以外は、ただただ静かな夜だった。ああ、ポルターガイストくらい、起こせたらな。案外怖がりなきみは、びくりと肩を震わせて、外にいる〝最上さん〟のところに駆けていくかもしれないのに。

 ――悠一くん、わたしはね。もしも成仏できたら、それからもう一度生まれることができたら、まっさきにきみに会いにいきたいよ。きみのことは生まれたときからみてきたから。きみと、きみのお母さんの側にずっとゆらゆら漂っていたから、だから、ちゃんときみに会いたいよ。きみのところに行って、きみに聞こえなかったことを、もう一度たくさん言いたいよ。あと、できるなら、きみを笑顔にしたいかなぁ。

 まあ、そんなことを、いっても。

 ――成仏の仕方、わからないんだけど。

 こまったね、と笑う。幽霊を長々と続けてきたわたしは、届かない言葉もみえない姿もそういうものだとわかっている。そうであることは、苦痛はともなっても、べつに、絶望ではなくて。だって、逃げたければ逃げられる苦痛だ。
 わたしは、幽霊なのだから。きみと生きているわけでもない。きみの隣に浮かんでいても、きみの心にどれだけ寄りそおうとしても、存在しないものなのだから。きみのそばにいる苦痛なんて、離れてしまえばきっと消えてなくなるのだ。忘れてしまえる。仮にわたしが絶望したって、わたしはそのうち言えてしまう。
 いや、でも、生きてるひとのことだしなぁ。わたし、死んでるから、土台、むりな話だしなぁ。
 って、言えてしまう。
 どちらかといえば、だから、これは緩やかに甘んじることにした苦痛で、惰性で生み出された憂鬱だ。
 彼が握り込んだ拳から、じわりと血が流れるのをみつめる。血のにおい。むかしにも嗅いだ。いつだろう。死んだときだろうか。覚えていない。今この時に、もはや関係もない。彼は、血が止まって乾きはじめて、痛みがひいた頃合いになると、また爪をたてて、やわい皮膚をなんども突き破った。自分を責める言葉と同じなんだろう。誰にも痛めつけてもらえないから、代わりに自分で痛めつける。
 痛み、というものともすっかり疎遠になってしまったわたしは、けれどむずりと手のひらが疼くような気がした。痛いものは、痛かったのだと。幽霊のわたしは、知っている。
 どうしてわたしは幽霊なのだろう。どうして、なにもできない幽霊なんだろう。いてもいなくてもおなじものなら、どうしてわたしはここにいるのだろう。いや、いないん、だけど。わたし自身が『わたし』を描写することをやめてしまえば、途端に終わってしまうものなのだけど。だって幽霊だから。けれど。でも。どうして、わたしは、きみの役に立てないのだろう。

 わたしは無力でどうしようもない。このからだが恨めしい。ああ、うらめしや、だとも。幽霊だけに。なんて冗談に笑うのは、わたしだけだ。
 乾いた笑い声であって欲しかったのに、漏れるのはやけに湿った声で。きみ、知っていた? ひとは幽霊になっても泣くようだよ。
 無意味だと、届かないとわかっているのに口を開いてしまうのは、やっぱりわたしが幽霊だからだろうか。幽霊なりに、人間だからだろうか。
 ――未来がみえることは、きっときみをたくさん不幸にするね。
 未来がみえる。そんな不思議な力があるらしい彼にも、わたしの姿がみえないのはちょっと悲しいけれど。でも、未来のないわたしをみれないのは、不思議なことではないのかもしれない。
 ――わたしが何をしたって何を思ったって、きみの人生にはすこしも影響しないけれど。でも、きみを想うこころは、ここにある。きみの幸せを願うわたしは、ここにいる。
 きみにも、世界にも、何の影響も残さないわたしだけれど。それでも、きっとわたしはここにいる。それをわたしだけが知っている。わたしだけが証明する。ここに、きみのしあわせを、願っているものはある。
 ――どうかそれが、ほんのすこしでも、きみが幸せになれるなにかに、なれたならいいな。
 彼が、顔をあげた。それは別に、わたしの声がきこえたわけではなくて。理由はなかったのかもしれない。きっと、ただ、ふと顔をあげてみた、だけなのだろう。ぱちりと合ったように感じた目線も気のせい。彼はわたしがみえていないから、わたしの向こうの窓の外を見ているはずで。
 青い瞳に光が写り込んでいた。街の灯り。人の営みの灯り。自分を責める言葉を紡いでいた口がわなないて、あかく腫れた目元に、あたらしく一筋の涙がこぼれ落ちる。それは、今までの涙と、苦しさと、後悔とは、ちがったもの。

「……っ、う、ぁあ……!」

 ああ。きみはその光に、どうしようもない『かなしさ』を、いま、やっと、感じている。ずっと伏せていた目に街の光は眩しいだろう。光の奔流は、目を灼くほどだろう。きらきらと輝いて、その向こうに人がいるとわかるから、だから、かなしいのだ。自分のせいだと責める苦しみの根源、最初の気持ち。ただ、お母さんが死んでしまってかなしいという、たったそれだけの気持ちを、いまやっと。
 声をあげてしゃくりあげる彼を見つめて、そっと微笑む。わたしはなにもしていない。これからもできない。それでもきみは、こうして顔をあげて、きっと立ち上がれもするのだろう。そして、きみがこういうふうに泣くことは、これが最後かもしれないこともなんとなくわかる。そういうきみだと知っている。だからわたしは、きみのことが愛しくて仕方ないのだ。そういうきみを同じように愛しくおもう他の人と違って、きみになんにもできないけれど。
 隣に座って、首を傾けて彼に寄りかかる、ポーズだけしてみる。世界でいちばん近くできみのかなしみに触れながら、そっと目を閉じる。
 きみに会えるなら『わたし』がなくなってもいいけれど、『わたし』がなくなったら、きっときみのことを愛しく思うこともなくなってしまう。それは、すこし、いやだなぁ。
 ――きみは全く知るよしのないことだけれど、わたしはきみのことが愛しく思えて、しあわせなんだ。
 まさか幽霊になったあと、しあわせになれるだなんて思わなかったんだ。わたしが、こうして幽霊ながらに世界に残っているのは、わたしがそうしたいと思ったから。それ以外の理由は、わたし以外の全てに知覚されない以上、あり得ないわけだけれど。でもね、わたしがここにいたいと思えたのは、きみがいるからだった。
 ――だからきみに、しあわせになってほしいなぁ。
 どこまでもいつまでも一方通行だ。身勝手どころか、この身といえるかも怪しいからだで抱える想いだ。そうであるからこそ、わたしは『わたし』がきえてなくなるときまで、きみを見つめて、きみの声をきいて、きみのそばにいようと思うのだ。
 わたしは、なにもできない、幽霊だけれど。



 それでもわたしは何かがしたかった。


 つきり、とこめかみに痛みがはしる。ボーダー本部の廊下を歩きながら、迅はこめかみに指をあてて、ぐりぐりと指圧した。外側からの刺激につきつきとした痛みは鈍くなって、かわりにじいんと痺れる。
 ゆっくりとまぶたを下せば、視界がちかちかときらめいた。目を開けていようと閉じていようと視界には無数の未来が瞬いて、迅を未来へ引き戻す。過去でも現在でもなく、未来ばかりを写していく。
 頭痛がはしるのは、決まってめまぐるしく未来が動いているときだった。子どものころから度々あるこの頭痛は、パソコンがデータを処理しきれず熱を持つのと同じ状態なのだろう。能力に対して脳の機能が釣り合っていない。過ぎた力ではある気がしたけれど、それでも視ることはやめられなかった。
 手のひらで軽くまぶたを抑えた。冷たい感触に覆われて、瞳が熱を持っていることがよくわかる。じぃん、と痺れて、やはり酷使しているのだろうと唇を噛んだ。笑う気力もない。

「どうしたの?」

 突然響いたのは、幼い少女の声だった。ぴたりと足を止めて、目元を覆っていた手のひらを外す。そうすればすぐに、自動販売機の横に置かれたベンチの上で、足をゆらゆらと揺らしている少女と目が合った。陽太郎とそう離れていなさそうな年齢の少女は、迅を見上げて、もう一度囁く。
「いたいの?」
 まあるい瞳が迅を見つめている。ぱちり、と瞬きをしてしまったのは、ボーダー本部に不釣り合いなお子様の存在を、今の今まで想像していなかったからで。迅がどう声をかけようか迷っていると、少女はベンチからぴょんっとおりた。はしゃいだような勢いの良さのわりに、ゆっくりと迅のそばに寄ってくる。
「こんにちは」
「こんにち、は?」
 礼儀正しく挨拶をしてきた少女が、首をあげて迅と目を合わせようとする。頭をあげすぎて、そのまま後ろに転んでしまいそうだ。それに気づいてその場にしゃがみこむ。それでも少女が迅を見上げる構図は変わらないが、姿勢は随分と楽そうだ。少女と視線を交える。見慣れない顔立ちだった。
「きみは?」
 そう、迅が問いかけると、少女はぱちぱちと瞬きを繰り返し。それから、じわりと笑みをにじませた。
「あやしいものではございません」
 妙に難しい言葉遣いができる少女は、首から下げていた名札を迅に見せる。そこに書かれていたのは迅も知るボーダーのエンジニアの名前と、それから少女の名前らしき文字。その横には『本部滞在許可』と赤い判子が押されていた。何か家に置いておけない事情があって、連れてこられたのだろう。そんな風に予想する。珍しいことだが、あり得ないわけではない。こんな人通りの少ない廊下にひとりでいる理由はわからないが。
「あなたの、おなまえは?」
「えーっと……迅だよ、迅悠一」
「ゆういちくん」
「うん」
 男女の差のせいか、それとも目の前の少女が大人びているのか、随分と落ち着いている。陽太郎よりも理性的な瞳は迅を見つめて、それからゆるりと笑う。
「いたいのいたいの、とんでけ」
 伸ばされたちいさな手が、迅のこめかみのあたりを、少々雑に撫で回す。子ども特有のあついてのひらが、やわらかくあたためて、短い指の先が迅の髪をくるりと乱す。
「……えっと?」
 どうしておれは、頭を撫でられているのか。いまいち現実に追いつかない思考は疲れのせいだろうか。迅が困惑のままに少女を見れば、その視線を少女は柔らかく受け止めて、けれど手は止めない。
「ふふ」
 と、目を細めて笑う少女は、無邪気で、無垢ではあるのだけれど、どこか余裕を持っている。それこそ、自分よりもちいさな子どもを相手にするときのように。
「きみのほっぺはすべすべしてる」
「あ、ありがと?」
「かみもさらさらで」
「そうかな」
「だきしめてみてもいい?」
「え、」
 いいよ、という前に、少女が胸元に飛び込んでくる。しゃがみこんだままそれを支えてやれば、小さな手が首に回されて、強く抱きしめられる。強く、とはいっても、この年齢の女の子だから、振りほどけないものでもなくて。でも、振りほどいてしまえば怪我をするだろうし、なにより少女の心が傷つくだろうと思って、迅はぴたりと動きを止める。腕が回された首のあたりがあたたかい。少しだけ、疲れが溶け出しているような気がした。
「ハグにはおふとんとおなじくらいのいやしこうかがあるそうですよ」
「そう、なんだ」
「ちょっとは、おやくに、たてたでしょうか?」
 耳元で幼い声が聞こえる。この少女が何をしたいのかようやくわかった。迅を、心配していたのだ。こんな小さな子どもに心配されるほどひどい顔をしていただろうか。していたかもしれない、と苦笑する。目の前に広がる未来にかまけて、現在を見ないのは迅の悪いくせだ。
「それは、癒されたかってこと?」
「そうです」
「……うん、癒されたよ」
「しゃこうじれいではなく?」
「難しい言葉知ってるなぁ。……社交辞令ではなく、かな」
「……すこしでも、おやくにたてたのであれば、こうしてうまれてきたいみもあったというものです」
「それは、……」
 一瞬、この少女はもしかしたらトリオン体ではないのかと思った。幼い少女の姿を模したトリオン体で、中身は、迅の知る誰かもっと大人ではないかと。迅を驚かせようと少女になりすましているのではないか。
 過ぎった考えに、いや、と否定を重ねる。少女は生身だった。トリオンで模された熱ではない、心音ではない。このぬくもりは、少女が少女として生きているからこそ得られるものだ。
「さて、ざんねんながら、わたしはもういかなければなりません。じつはこっそり、へやからぬけだしていたところでして。こればっかりはゆーれいのほうがよかったなとおもうばかり」
「?」
 後半は声を落として早口に囁いていたので、少女の言っていることはすべては聞き取れなかった。するり、と首に回した腕をほどいて、少女は迅に向きなおる。
「またね、ゆういちくん」
「え、あ……うん、また――?」
 少女はひとつ、大輪の笑みを残して、どこかへ駆けていく。意外に早くて、あっという間に角を曲がって、足音も遠ざかっていた。迅はしゃがんだまま、それをぽかんと見送ることしかできなくて。
 なんだったんだろう、と漏らした呟きに答えてくれる人もなく、迅は首を傾げながら立ち上がった。つきりと頭を刺していた痛みはどこかへいっていて、癒し効果は確かにあったのだろうけれど。
「……また、か」
 また、会うのだろうか。なかなか難しい気はしたが、お互いの名前は知っている。だったら、どこかで会うこともあるのかもしれない。ちらちらと視界をよぎっていく未来に、あの子の姿は見つけられるだろうか。わからないけれど、もしも視えたなら、そのときは会いにいってみようか。
 迅は立ち上がり、少しだけ軽い足取りで歩みを再開させた。


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