受験が終わったら

「犬飼くん?」
 くちびるから漏れた声は喧騒に紛れてしまえるほど小さかった。
 厚着をしすぎたのか、このフロアが暑いのか――それとも気持ちが高ぶっているのか。熱い頬を持て余しながら帰ろうとして、なまえは見慣れた薄い金色を見つけてしまった。心臓が跳ねる。
 いつものブレザーとは違う、紺のステンカラーコートにオフホワイトのタートルネック。なんてことはない服装だと思うのに、見惚れるほど似合っている。髪はいつもより大人しめにセットされているが、間違いなく同級生の犬飼澄晴だった。
 壁に背を預けた犬飼は手元のスマートフォンに視線を落としている。なまえの声は聴こえなかったらしい。バレンタイン催事には女性客が多く集まり、なまえの姿も声も埋没する。そもそも知り合いに見つからないよう三門から離れたこの百貨店を選んだ。だから気付かれなかったのは良いこと、だけれど。
 ――だれと来てるのかな。
 うまれた疑問が足を縫い止めて、視線を外せない。ひとりで来たわけではないと思う。犬飼の連れ人は、あのバレンタイン催事場にいるのだろうか。彼のためのチョコレートを、選んでいたり。ぽかぽかと温もっていた心が冬を思い出して凍える。

「――あれ?」

 不意に、ばちりと視線がかみ合った。青い瞳が瞬いて、耳に伸びた指先がイヤホンを外す。おいでよ、と言うような笑みと手招き。糸で引っ張られるように犬飼の方へ歩けば、笑みがいちだんと深まった。
「みょうじちゃん。なにしてんの?」
「えっと」
「あー、ごめん。チョコレート買う以外にないか」
 教室と同じような気安さで話しかけられて、むしろ戸惑いが先立つ。あおい瞳がなまえの持つ紙袋を捉えた。いたたまれなくなって後ろに隠せば、犬飼は少しだけ瞳を眇める。
「犬飼くんも、お買い物?」
「そ。流行りの逆チョコ用に」
「そっ、う、なんだ」
 にまりと笑う犬飼に動揺しなかったといえばもちろん嘘だ。犬飼は、バレンタインにチョコレートをあげたい人がいるらしい。でも――恋人と一緒に買いに来たわけじゃないとわかって、安堵もしている。心はぐらぐら揺れる秤のように落ち着かない。
「まあ嘘だけど」
「うそなの」
 なんでそんな嘘を。もしかして本当に恋人と来ているのか――問いただす前に犬飼が照れたように頬をかいた。
「……ほんとは荷物持ち。ねーちゃんに命令されると弟は逆らえないわけ」
「おねえさん」
 自分でも間抜けと思うような声だったが、犬飼は気にした様子もなく頷く。「そう、それも二人」伸びた指先が、なまえもさっきまで居たフロアの中心を指す。
「今ごろあの辺で買い漁ってる」
「買い漁るって……」
「いやマジで。毎年やばい。腕もげそうになる」
「チョコレートで?」
「チョコレートで……いま、ちょっと笑わなかった?」
 だって神妙な顔をしていたから。笑み混じりに告げれば「マジでめちゃくちゃ重たいよ。酒も一緒に買っておれに持たせるし。ひどくない?」と力説してくれる。
 ――あぁ、よかった。犬飼に恋人がいるのかいないのかはわからないにしても、ここで鉢合わせる可能性はなくなった。
「ヒマだからいいんだけどさ……っとごめん。みょうじちゃんはまだ受験中だよね?」
「ううん、大丈夫だよ」
 犬飼はクラスメイトのなかでもいち早く進路が決定していた。なまえは二月末に国公立の入試がある。いよいよ受験勉強も追い込みという時期なのに、ここにいることがすこし後ろめたい。その気持ちを知ってか知らずか、犬飼は受験のことを掘り下げなかった。
「チョコは家族用? 自分用?」
 選択肢から省かれている本命用。なんとなく、犬飼がなまえをどう認識しているかわかってしまう。小さなことがちくりと胸に刺さる。
「家族用、」
「へぇ、いいね。おれ、ねーちゃんから余り物以外貰ったことないよ」
「と、本命用も」
「……あっ、そうなんだ」
 やっぱり。なまえが誰かに本命チョコレートを渡すという発想はなかったらしい。虚を突かれたような顔から目を逸らす。微妙な沈黙が落ちた。
 言わなければよかった。でもこの気持ちを抱えたまま、焦燥感だけを募らせていても受験には集中できないだろうし、なまえは決着をつけたくてチョコレートを買ったのだ。あわよくばという気持ちもあったけれど、どうやらそれは無理そうだし――ここで終わりにしても、いいのかもしれない。受験のない犬飼の迷惑には、たぶんならないはずだ。そんな後押しが口を開かせる。
「犬飼くん」
「あ、はい。大丈夫。だれにも言わない。ごめん」
「荷物を重くしてしまうの、ごめんね」
「え?」
 必要なのは勢いだ。犬飼の手をとり、背後に隠していた紙袋を引っ掛ける。「もげたらごめん。ずっとすきでした」熱に浮かされた頭がなにを言ってるのかもうわからない。耳元で心臓がばくばくと鳴り響く。
「返事とかはいいので、あの、それじゃあ」
 やっぱりこのフロアは暑いんじゃないか。頭のてっぺんからつま先まで駆け巡る熱を空調のせいにする。
「まって」
 なかば逃げ出すように踵を返したなまえの手を犬飼が掴んだ。振り向けないまま、手首からじわりと伝わる冷たさに息がとまる。
「あー……、その、あれ。……この近くに美味しいケーキが食べれるところがあって、まあねーちゃんから聞いただけなんだけど、……受験おわったら食べにいく?」
 途中から、声が近くで聞こえるようになっていた。引き寄せられたのか、犬飼が距離を詰めたのかはわからない。
「……い、きます……」
「……うん」
 そろりと首を動かせば、犬飼がくちびるをゆるめるように微笑んでいる。耳が赤い。手首を握る力が強くなった。わざとそうしたのだと告げるように一度だけ。
「……ひとまず、受験勉強、応援してる。みょうじちゃんならいい結果でるよ。毎日、図書室で勉強してたじゃん。自信もっていいと思う」
 ボーダーで忙しいはずの犬飼がどうしてそのことを知っているのか。驚いたけれど、そこにはただ笑みがある。あおい瞳がやさしく細められた。


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