やさしくしてよ

 誤解を恐れずいうのであれば、わたしは犬飼澄晴という男がきらいだ。理由はいろいろあるけれど、いちばんはあの笑顔だ。黙っていれば品良く整った甘い顔立ちを緩ませて、へらりと人好きをするような笑みを浮かべるくせに、その青い瞳はちっとも楽しそうではない。そのちぐはぐさが、細められてもなおこちらをじぃっと観察する青い瞳が、ただ、とにかく、きらいだった。
 そう思うのに、わたしはもう六年も彼のクラスメイトをしていた。中学高校と、なぜかずっと同じクラスだ。それは正真正銘、ほんとうに偶然で、その偶然が気に入らなくてまた犬飼をきらいになる。そこに犬飼の責任はないのだけれど、わたしは手近に文句をつけれる彼のことをきらいになった。元からきらいだから、きらいになるのがとても楽だったのだ。犬飼のほうはその偶然に笑って――そう、いつものあの笑みを浮かべて、
『また一緒になったね、なまえ』
 と、喜んでいそうにもない、いびつな瞳をわたしに向けるのだけれど。なまえで呼ばないでと言っても、ちっともいうことを訊いてくれない。だからせめて、わたしは彼を『犬飼』と呼び続けている。彼が無遠慮に詰めてくる距離を保つために。
 けれど犬飼は、それも見透したような青い瞳をわたしに向けて、楽しそうに笑う。ひたりとこちらを見据え――見下ろしながら、瞳以外のぜんぶを使って笑うのだ。

 六年目の五月。六回目の五月。
 犬飼は、いつにもましてわたしのきらいな笑顔を浮かべながら、わたしの前に座った。普段は遠くからにやにや笑って眺めてくるだけの男の襲来に、わたしは眉を顰める。
 けれどかなしいかな、彼を連れ出してくれる人はいなかった。放課後の教室はとっくのむかしに閑散としていて、元から残っていたわたしと、後から戻ってきた犬飼のふたりしかいない。まだ明るい陽の光が窓から差し込んでくる、窓際の前から二番目がわたしの席だった。
「そこ、犬飼の席じゃないけど」
 犬飼の座席は、わたしのちょうど反対。廊下側の後ろから二番目。ほんとうは席替えのとき、彼の後ろがわたしの席になってしまったのだけれど、適当な理由をつけて変えてもらった。犬飼は人気があるから、すぐに他の女子が名乗りを上げてくれて、わたしは犬飼を視界に収めなくて済む席を手に入れたのだ。
「いいじゃん。みんな帰ったんだし」
 日直? と問いかける声に手元の日誌をシャープペンシルの先で叩いた。同じクラスなんだから、そんなこと知っているだろうに、わざわざ訊いてくるところが嫌らしい。
「ボーダーは?」
 帰れば、という思いをこめて尋ねる。
 二年ほど前に、犬飼はボーダーに入隊した。それよりもさらに二年前、ネイバーと呼ばれるばけものが三門市を襲ったあとに設立された防衛機関だという。詳しい活動は知らないが、今も襲ってくるばけものたちから街を守ってくれているらしい。犬飼に守られるなど心外でしかないけれど、わたしはボーダーに入隊する気もなく、彼らが与えてくれる平和のうえで寝そべっている。
「今日は休み」
「そう。帰れば?」
「冷たいなぁなまえは」
 笑みが深まる。けれど犬飼の青い瞳は、こちらをじぃっと見つめていた。それから逃れるように日誌に目を落とせば、視界に入り込む肘。わたしの机に肘をついた犬飼は、頬杖をつきながら、まだこちらを見ているようだった。
 シャープペンシルからのびる、細い芯の先に意識を集中させようと思ったけれど、ちくちくといろんなところを刺されるような感覚がする。視線を感じる、ということが実際にあるのだということは、犬飼のせいで知っていた。
「邪魔」
「やさしくしてよ。おれ、傷ついてるの。今」
「家に帰って毛布にくるまって寝ればいいよ」
「的確なアドバイスじゃん」
 おれのこと、きらいなくせに。
 ぽつりとおちた声に、シャープペンシルの芯がぱきりと折れた。長くのばして書く癖があるから、折れやすい。カチカチとノックして、さっきと同じぐらいまでにのばせば、短い芯がぽとりと落ちた。ため息をついて、筆箱のなかから替え芯を探す。
「きいてる?」
「きいてない」
「きこえてるくせに」
 犬飼は、わたしが彼をきらいだと知っている。きらいだと知っていてこうして話しかけてくるのだと、わたしも知っている。だから、あんなのは今更の言葉だった。
 筆箱から見つけた替え芯をシャープペンシルに詰めて、カチカチと音を鳴らす。しばらくして出てきた芯先を白紙に押し当てた。あと数行書いてしまえば提出できる。
「好きな子がいたって言ったら信じる?」
 きいてないと言ったのに、犬飼はそれを聞いてない。けれどわたしはそれをきいてないのだから、返事はしなかった。
 日誌に綴る文字は、枠さえ埋められたならなんでもいい。英語の授業では受験を意識した長文読解を、古典では漢文を、数学では小テストを。しました、しました、しました、と並んだ文章はちいさな子どもの作文のようだけれど、担任は細かいところは見ない。
「なまえ」
 なまえで呼ばないで、と何度もいうのに、犬飼は相変わらずわたしのことをそう呼んでくる。
「そいつはね、すっごい、いやなやつだったよ。顔も性格も冴えなくて、なのにへらへら下手くそに笑ってて。他のなんにもできないくせに、的当てだけは一番で」
 犬飼のことじゃないか、と思った。顔はいいし、性格は冴えないというよりは悪辣だけれど。彼が一番なのは的当てではないかもしれないけれど。ただひとつできること以外は、なんにもできないところなんて、犬飼そのものじゃないか。
 彼は、自分のことを、なんでもできるけど、なにかひとつできない人間だと思っている節があるけれど、わたしに言わせればそんなことはない。彼は、なんにも、できない。
「なにを言われてもそこにいたのに、ある日、急に、なにも言わずにいなくなった。いやなやつだろ?」
 からりとした笑い声が響いた。見なくてもわかる。笑ってないくせに。
「……犬飼よりはマシなんじゃない」
 誰かも知らないけれど、犬飼に好かれたあわれなひとを想った。そのひとは、この男が好きな相手から離れられることをとっても嫌がると、知っていただろうか。
「なにそれ、きずつく」
「勝手に傷ついてて」
 書き終えた日誌を閉じた。筆箱のなかにシャープペンシルと消しゴムを詰め込んで、ファスナーをしめる――その、わたしの手を掴んだのは犬飼の右手だ。
 節だった、けれど男のくせにきれいな手が、わたしの手首をゆるく絞める。
「なんども殺したんだ」
 骨と血管がすこしだけ浮いた手の甲を見つめながら、その声をきいていた。きいていないはずだったのだけれど、犬飼の声は、なまいきなことに耳に馴染む。わたしの手首を握った右手は、じわじわと力を強めていた。圧迫された血管がとくとくと鳴るようだ。
「おれは、あいつを、なんども殺した。あいつは、いっかいもおれを殺せなかったのに」
 銃を、突きつけあってさ。と、犬飼の左手が、ピストルのかたちを作ってわたしの胸元を狙う。それを辿って犬飼の顔を見れば、やっぱりそこにはあの笑みがある。
「……せーので撃とうって、言ったのにさ」
 ばん、と犬飼のくちびるが無音のままに動いた。銃身の反動を表現したように動いた手が胸をかすめて、眉を寄せる。
「あいつは、いつも撃てなかった」
「そう」
 犬飼がなにを言っているのか、わたしにはわからない。天井を向いていた人差し指を掴んで、人を指差さないでくれる? と関節と逆方向にねじる。いたい、と呻いた犬飼の、久しぶりに目にした笑顔以外の表情に胸がすく思いだった。
 けれど、彼の右手は、わたしの手を離さない。
「……それを、どうして、わたしにいうの?」
 ボーダーのことなんでしょ。口からこぼれた言葉は冷たい温度で、けれど犬飼がその冷たさに傷つかないことを知っている。
 青い瞳を見つめた。こちらをじぃっと見つめてくるそのあおが、いつもと違ういろにみえた。
「だってなまえ、やさしいし、友達いないから」
 一言どころか二言、余計だ。友達はクラスにいないだけだし、犬飼に優しくした覚えなんてない。この男をどうやったら黙らせることができるのだろう。その頬を殴っても、きっとこいつはへらへらと笑っている。
「あいつと、おんなじ」
 なにがあっても笑っている。それが、犬飼のいちばん得意なことのはずだ。けれど、今、犬飼は――
「……わたしはその子じゃないよ、犬飼」
 あおいひとみがゆれている。いつも変わらなかったあの瞳が、いつもと違う。きっと、気のせいだ。日が傾いて、差し込んだ日差しが横顔を照らして、だからいつもと違うようにみえる。それだけのことなのだと思った。それだけのことに、してあげようと思った。
「……知ってる」
 ぱっ、と手首が解放された。赤いあとが残った手首をさすれば、じわりとあつい。
 中途半端だった筆箱をしめきって、机の横にかけていた鞄のなかに放り込む。
「おれがあのこを好きだって言ったらさ」
 ちいさな声がぽつりとこぼれた。
「お前が人を好きになるわけないだろって言われたんだけど、ひどくない?」
 ざまあみろ、と思った。加えて、彼にそれを告げたひとはとても鋭いのだなとも。
 机のなかから宿題のでていた教科のノートと問題集を引っ張り出して、筆箱と同じように鞄のなかに入れる。
「……でも、なまえは否定しないんだ」
 そもそも、話をきいていないからね。
 椅子を引いて立ち上がれば、緩慢な動きで犬飼がわたしを見上げた。
「帰るの?」
「帰るよ」
「……おれも帰ろ」
 そうして、と囁く。最後に残って教室の鍵を締めるのも仕事のひとつだ。
 パチン、と壁のスイッチを押した。蛍光灯が消えて、教室のなかは薄暗くなる。けれど、窓から、廊下からのびる光が、完全な暗闇になることを許さない。
「――犬飼」
 呼べば、中学のころとは違うきんきらの頭は、すでに廊下へ出たところだった。振り返った顔がきょとんとこちらを見つめて、青い瞳が瞬く。
「いいよ、わたしの名前を呼んで。」
 なにもかも、いやになったときは。
 犬飼が、こちらをじぃっと見ていた。けれどそこに笑顔はなく、凪いでいる。
 廊下に灯ったままの蛍光灯は、逆光になって犬飼の顔にふかい影を落としていた。それでも、顔が見えないほどではない。遠くのほうで、吹奏楽部が練習している曲が響く。窓の外からはグラウンドを走る運動部の姿。階段を駆け上る笑い声。けれど、ここにいるのはわたしと犬飼のふたりだった。こういう偶然が、わたしと犬飼のあいだには、よくある。
「……いっこだけ、訂正しとく」
「なにを」
 耳慣れない声だった。やさしいとさえ思える、ちいさなこえ。
「あいつが、なまえとおんなじなんだ。……ほんの、ちょっとだけね」
 笑った顔は、わらっていなくて、やっぱりきらいだと思った。さみしがり屋め、と、心のなかで悪態を吐く。
「……あっそ」
 平坦な声が出た。犬飼が笑う。いつものように。
「冷たいなぁ。……まあ、おれのせいだけど」
 よくわかっているじゃないか。答える代わりに教室を出て、扉を閉めて鍵をかける。犬飼はわたしの背後に佇んだままだった。
「むかしは、あんなにすきだったのに」
 背中に届いた声はあまくて、思わず振り返ってしまう。
「犬飼が、わたしをね」
 眉を顰めてそう告げれば、青い瞳がいたぶる獲物を見つけた猫のように細まる。
「そのつもりで言ったけど、誰が誰をすきだったと思ったの?」
 答えない。わたしの耳は、犬飼の声を拾わないようにできている。
 日誌を提出しに行かなくては。職員室につま先を向けて歩き出せば、ついてくる足音がある。窓の外をちらりとみれば、東の空は暮れ始めていた。
 外が暗いから、窓にわたしがうつりこむ。犬飼が、わたしと同じように窓を見て――わたしをみていた。
「……ねぇ、なまえのいうとおり家に帰るからさ。毛布にくるまってよ、一緒に」
「嫌」
「なんで?」
「犬飼に優しくしたくない」
 ひどいなぁ、と笑う声から顔を背けた。


 誤解を恐れずいうのであれば、わたしは犬飼澄晴がきらいだ。とくに、あの笑顔がきらいだ。笑っているくせにわらえていない、あのあおい瞳がきらいだ。さみしがり屋のくせに、離れていくと追いかけるくせに、そばにいるときは知らんぷりをする天邪鬼なところなんて、ほんとうにきらいだ。
「犬飼も、だれかをきらいになれたらよかったのに」
 ベッドにもたれかかりながらつぶやいた。毛布のかたまりはなにも答えなかった。
「いぬかい」
 あなたがほんとうに呼びたい名前は、どんな名前なのだろう。


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