生まれては死んでゆく

 波が砂を侵食している。
 不揃いな波長はでたらめな言葉のようだった。あるいは楽譜だろうか。だとすれば、それはとてもさみしい音を奏でるのだと思う。波と風の、さみしい音。海はうるさくて、うるさいから、とても静かだ。刹那にかたちを失う潮騒の淵をひとりで辿る。
 風が吹きつける。頬をぶつような、つめたく、おもたい風。
 生きもののにおいがした。死んだ生きものと、産まれる前の生きもののにおい。空気に砕けた波のかけらがまぎれている。ずん、と沈んだ色の雲が空を覆って、海は暗くひかっていた。分厚い雲の隙間から細く落ちる金色だけが重苦しい冬にひとさじの春を滲ませている。
 なかば凍った砂に、足跡を残しながら歩く。
 明日には波風に拐われて消えていくのに、残せた気になりながら。
 少なくとも、私の記憶には刻まれるからと。

「――――」

 私を呼ぶ声がとおくから響いて、思いのほか長く歩いていたことを知った。
 晩冬の空気を貫く声は鉛玉に似ている。粛々と、まっすぐと通り抜けて、けれどかすかに震えているところ。停止すればそれが傷だらけだと知れるところ。
 振り向けば、堤防のうえから鳩ちゃんが手を振った。潮風になぶられたコンクリートをひょいっと飛び降りて、木端のようなからだは砂に足を取られてぐらりとゆれる。
 鳩ちゃんがはにかむように笑った。そういうふうに笑ったことは見えなくてもわかった。失敗をごまかすときの彼女の笑みが私は嫌いだった。
 こちらへ歩いてくる鳩ちゃんを見つめる。彼女はさくさくと砂浜を踏む。自分からは近寄らない私に、ちっとも気を悪くしていない顔で。靴を砂まみれにしながら。
 風はますます強く私たちを追いやっていた。砂が舞い上がってベールのように地上をたゆたう。決して攫われることのない石のように彼女を待つ。乱れる髪が視界を途切れさせた。呼吸のたびに入り込む冷たい空気が肺を軋ませている。鳩ちゃんの頬は、彼女自身の、針のような毛先でちくちく刺されているだろう。一度も染色したことのないような黒髪は、そのくせ傷んでいて、かたい。
 手入れのたりていない荒れた肌に散るそばかすが見えた。笑みのかたちをつくるくちびるは今にも血が滲みそうで痛々しいのに、そのまなざしはどこまでもやさしい。
「ごめんね、ココア、売り切れてた。どっち飲む?」
 私の前で立ち止まった鳩ちゃんがちいさく首を傾げて問いかける。ダッフルコートのおおきなポケットから出てきたのは、缶入りのミルクティーとカフェオレ。なるべく甘そうなものを選んでくれたのだろう。
「おしるこもあるよ」
 三本目がでてくる。ここにはふたりしかいないのに。私が無言のままミルクティーに手を伸ばすと、鳩ちゃんは「だと思った」と笑って、カフェオレもお汁粉もダッフルコートのポケットへしまう。自分は飲まないらしい。さむいからあたたかいものを飲もう、と言ったのは彼女なのに。余分なみっつめも含めて、間違いなくすべて私のために用意してくれたものだった。
「……鳩ちゃんは、自分が悪くないときも謝るね」
 かしゅり、とミルクティーをあけながら呟く。私の言葉に鳩ちゃんは困ったように笑った。缶から立ちのぼる白々とした煙は、瞬く間に風に拐かされていく。ひとくち飲み込んでから吐き出した呼吸も、またおなじように。
 缶から手のひらへじわじわと熱が移って、それが痛いほどあたたかくて、だから自分がどれだけつめたい人間になっているかを自覚する。彼女の優しさに似つかわしいものを持っていないことがすこし苛立たしくて、それは鳩ちゃんのせいではないのに、声が鋭く尖る。
「よくないとおもう」
「ご、ごめん……」
「今だって、鳩ちゃんはなにも悪くなかったよ」
「ごめん……あっ……」
 鳩ちゃんはばつの悪そうな顔で私を見た。荊に心臓が撫でられたような気分だった。この底抜けの優しさを、私はやっぱり、持っていない。
 痛みとミルクティーをひとくち飲んでから「……あやまらないで」と声を絞り出す。こくん、と鳩ちゃんが頷いた。おそらく鳩ちゃんはまた、自分が悪くないことで謝ってしまうのだろうけれど。ちいさく笑みを落とせば、鳩ちゃんも笑う。
「ミルクティー、ありがとう。いくらだった?」
「いいよ、このくらい」
「そういうわけにも……鳩ちゃんは飲まないの?」
「あとで。あたし、猫舌だから」
「そっか」
 間延びした会話の空白を波の音が埋めている。私がふたたび歩きはじめると、鳩ちゃんはなにも言わずについてきた。隣に並んで、ちらりとこちらを窺ったあとは、ぼんやりと海岸線を眺める。私がこうして盗み見ていることにも気づいていないだろう。
 彼女は、とおくを見ていた。
 海のはての、空のむこうの、いもしない誰かを、その茫漠とした瞳に映すように。
 今日も生まれたままの皮膚と髪でいる彼女のことを考えた。
 雨取麟児という男に引き合わされた、鳩原未来というおんな。
 互いに見知らぬ他人のまま生きていくはずの、同い年の友人。
 麟児くんの――共犯者。
 界境防衛機関ボーダーの裏切り者。
 麟児くんは彼女に悪事を働かせるつもりだ。彼女の役割は界境防衛機関ボーダーだけが保持する、近界民と戦うための技術を盗み出すこと。それはボーダーに属する人間にしかできない。彼女も承知している、と麟児くんは言った。
 よろしくお願いしますと律儀に頭を下げたところも、おどおどと頼りない表情も、そんな大それたことには無縁そうに見えたけれど――焦燥を孕んだ瞳が、それだけでじゅうぶんなくらいに、その覚悟を語っていた。
 彼女のまなざしを覚えている。
 大切なものを捨て去ってまで求めるものがあることが、羨ましかったから。

「どうして海なんだろうって思ったけど、冬の海も素敵だね」
 砂の終わりが見えてくる頃になって、鳩ちゃんが言った。岩場が近いせいか砂に石がまじっていて歩きにくい。こんなところまで黙って歩くのを許容するのは、とても鳩ちゃんらしかった。
「わざわざ来ていただきまして……鳩ちゃんには苦労をかけます」
「苦労なんて。ここまで来るの、楽しかったよ。遠足みたいで。こうして歩くのも」
「それならよかった」
 誰も私たちのことを知らないような土地で、さも偶然みたいな顔して出会うときだけ、私と鳩ちゃんは友人だ。
 私は彼女につながる電話番号もメールアドレスも何もかもを知らない。一度見たら覚えられるそれを、私は見ないようにしていた。連絡は麟児くんを介するか、暗号めいた置き手紙のやりとりで済ませる。
 とても手間ではあるけれど、私たちに三門市のなかで接点があってはいけない。ふたりで仲良くいるところを知り合いに見られてもいけないし、記録に残る通話やメールなんてもってのほかだ。
 私は彼らと限りなく無関係でなければならない。そういう計画だから。
「……行かなくていいの?」
 ぴたりと立ち止まった鳩ちゃんが静かに問う。
 行かなくていいの――――近界に。
 省略された言葉を私は正しく把握している。
「うん」
 頷いても、鳩ちゃんは物言いたげに私を見ていた。
 何気なく切り裂くように潮風が頬を撫でる。あばらの内側が痛むのは冬のせいではないことを自覚している。彼女が行くと決めていて、私が行かないと決めていること。ただその事実がぎしぎしと心臓を締め上げていく。
「行きたい理由も、行くべき事情もないから。私は麟児くんに協力してるだけだよ」
「雨取さんに……ついていきたいとか、思わない?」
「どうして?」
 私が首を傾げると、鳩ちゃんは、少し面食らったようだった。そんなに驚くようなことだろうか。
 彼らは、譲り難い理由を持っている。なにものにも代え難い目的がある。だからどんな手段を使ってでも近界へ行くことを選んだ。でも、私がそうではないことくらいわかっていたはず。
 ……もしかしたら。
 それでも、私に来てほしいと、そう思ってくれているのだろうか。
 鳩ちゃんはもごもごと何かを言っているけれど、言葉に成り損なった音たちは潮騒にまぎれてわからない。
「鳩ちゃん?」
 さくり、と砂を踏んで一歩近付く。鳩ちゃんの顔を覗きこむ。鬱陶しく顔に被さる毛先。凍ついた空気に晒されたせいか皮膚はいつもよりも赤く傷んでいた。鼻先がふれあいそうなほど近づけば、鳩ちゃんがそっと身を逸らす。気にせず、その彷徨える瞳を見つめた。
「……だって……その、付き合って……? えっと……すき、なの、かと……あなたは、雨取さんのこと……」
 鳩ちゃんは頬を赤くしながら言った。ひどく慎重に、こわれものを扱うように、まるで自分のほうこそ恋しているみたいに。
 彼女の言わんとしていることを一瞬遅れて理解して、私は笑ってしまった。愚かな期待を抱いた自分が滑稽だった。
 好き、だとか。好きなら一緒に行きたいのだろう、とか。そんなことを、よりにもよっての相手から言われてしまうことも。
「まあ、好きか嫌いかと言われたら、好きだよ。でもそれは……こんなふうにかんたんに言えるような気持ち」
 笑みを整える。きれいに笑って告げれば、鳩ちゃんは「そう、なの?」と戸惑ったような表情を浮かべる。彼女のなかで、私は麟児くんに恋をしていたらしい。
「麟児くんには借りが――恩があるから。役立てるなら協力しようと思っただけ……それだけだよ」
 生まれつき、記憶力がよかった。忘れることができないくらいに。覚えているほうがおかしいのだと気づいたときから、それはひとりで抱える秘密となった――麟児くんに見抜かれるまでは。
 麟児くんは、私の人生に不意に現れた、たったひとりの理解者だった。何も取り繕わずに息をすることのできる心地よい居場所を与えてくれた。だから協力するのだ。
 彼はこうなることも見越して恩を売ったのかもしれない。そういう算段をつけることが得意な人だ。けれど、そうだとしても、彼に利用されていても構わないと言えるくらいには感謝している。彼は共犯者たちにさえ私の秘密を守ってくれたから。
 どんな打算があろうとも、彼が私の孤独を理解してくれたことに違いはないから。
 でも、好きだなんて、そんなの。
 そんなのは。

「――――鳩ちゃん」

 名前を呼べば、その瞳が私を映す。素直に。なんの衒いも憂いもなく。
 かたちにすることのできない言葉なんて知らないまま。
「……どうしたの?」
 彼女は優しい人だ。
 どこまでも。どうしようもなく。
 優しくて、善良で、脆くて、傷だらけで、酷い人だ。
 たった一つのもののために、それがどれほど苦痛を伴う行為でも、他のすべてを捨てることを選べる。愛情と自責だけが彼女を生かしている。
 そういう彼女の在り方が羨ましかった。
 私にはそうまで愛するものも、愛してくれるものも、いなかったから。不器用で不恰好な選択がたまらなく愛しかった。
 そんなふうに――愛されてみたいなんて、思ってしまうくらいに。
 ああ。このどこまでも優しい人に愛されるものが羨ましい。
 それに、なりたい。
 ……でも。
 鳩ちゃんは、私にずっと優しいけれど。
 ほかの人にそうするのと同じように、優しいだけだ。
 彼女に愛されているのは私ではない。
 かつて垣間見た焦燥は、今も彼女の瞳の奥で燻って、黒々とした海のさざなみのようにひかっている。私では与えられないものを、彼女は求めている。
「……ついては、いかないよ。鳩ちゃんがさみしくても」
 嘯く。
 彼女がくちびるをひらくまえに、言葉を重ねる。
「私には、私の、役割があるから」
 いつかやってくるかもしれないそのときに。
 彼らの、言えなかった言葉たちを伝えること。
 麟児くんは、かたちには残らない、余人には紐解けない、私の記憶にだけ自分たちの言葉を遺すことを選んだ。
 拷問されたら吐いちゃうかもよと言ったら、おまえに辿り着かせなければいい、と麟児くんは答えた。彼がそうすると決めたのなら、おそらく物事はそのように進んでいくのだろう。
 もちろん、彼らが近界に渡ったあとのこちら側での後始末や、彼らが帰ってきたときの現場不在証明づくりも私に課せられた重大な役割だ。けれど、麟児くんが私に――私の記憶力に期待していることは、わかっている。
「そう……だったね」
 鳩ちゃんが囁く。
 すこし沈んだ表情は、じわじわと近づく別れを思い出したからだろうか。彼女の大切な人たちとの、果てなき別れ。
「……だれになにを言うか、決められそう?」
 問いかければ、鳩ちゃんが困ったように眉を下げた。ミルクティーはもう冷めていて、ひとくち含めばやけに甘ったるくてぬるいものが喉を滑り落ちていく。熱いうちに飲めばよかったと思った。
 いつのまにか靴底に海がふれていた。潮が満ちようとしている。じわりと、塩水が染みていくのを感じる。
「なかなか……むずかしい、ね」
 鳩ちゃんは笑っていたけれど、やっぱりそれは私の嫌いな笑みだった。誤魔化すための笑顔。円滑にするための、身を削る行い。彼女だけが損をする。
 けれど、そうではない彼女だったら愛されたいなんて思わなかったのだろう。
 だから、もう、しかたなかった。
「ゆっくりで――」
 いいよ、と告げる前に。
 波が私の足を掴む。
「――わっ、」
 押し寄せる波とふれあった一瞬、離れていく刹那だけ、つめたい。海へと引き返す波にぐらりと崩れたからだを、鳩ちゃんが支えてくれた。ぱしゃっ、と鳩ちゃんの靴の爪先が海に浸かる。彼女の腕はやっぱり細い、引き金を引くにはあまりにも――なんてことをその一瞬に思った。
 私の右手から落ちたミルクティーが海をふわりと乳白色に染める。ほんのわずかな、ひとかけらだけ。呆然と見下ろしていれば、ミルクティーは缶ごと波に拐われていく。膨大な塩水に呑まれたあの甘ったるい味の行方は知れない。
「わ、あ……今の波、高かったね。だいじょうぶ?」
 鳩ちゃんは自分が濡れたことも、ミルクティーがほとんど無駄になったことも気にした様子なく、ただ私だけを案じて眉を下げた。
「っごめん……」
 無意識にこぼれ落ちた言葉に、彼女はちいさく首を傾げる。どうして謝られるのかひとつも心当たりがないようだった。
「立てる?」
 彼女はそっと私から手を離した。そして海へざぶざぶ入ってく。
「鳩ちゃ、」
「缶、拾わないと」
 止める間もなかった。曇天を映す黒い海に、寄せては返す波のなかに、彼女は立っていた。あたりを見渡したり、腰を折るようにして水面へ指先を伸ばしたり――この海に比べればどこまでもちっぽけな缶を探して。
 少しずつ沖へと向かう。
 くるぶしから、ふくはぎまでが浸かる。
 波飛沫が彼女を取り囲んで踊っている。
 潮風は切り裂くように頬を撫でていく。
 それでも。
「……、……ごめんね、見つからないや」
 ――鳩ちゃんは、やっぱり、なにひとつ悪くないのに謝った。
 海を踏んだ。白波が砕ける。冷たさを覚悟して踏み入ったそこは、思いのほかあたたかく、海から飛び出たところのほうがいっそ寒い。ざぶざぶと海がゆれる、それもすぐに波に食まれる。鳩ちゃんは、「濡れるよ、」と、なにもかも今更なことを焦ったように言った。
「鳩ちゃんが探さなくていいよ」
 海のしたたる手をとる。濡れてもなお荒れていることがわかる、ざらざらとした指先は熱かった。そういえば彼女は、私が体勢を崩すまではずっとポケットに手を入れていた。鳩ちゃんのダッフルコートのおおきなポケットには、カフェオレとお汁粉が入っている。
 そっとその手を引いた。波は、打ち付けるときよりも海へ帰るときのほうが力強い。もしかしたら、私が彼女の手を引く力よりも、ずっと。
「……でも、」
「大丈夫だよ」
 海にゴミを捨てるのはよくない。そんなことわかっている。それでも私はそう言い切った。鳩ちゃんは心の底から申し訳なさそうな顔をしていた。
 彼女は動かない。海のなか、柔い砂中に根を生やしたように。彼女の足元で波が生まれては死んでいく。
 ぎゅっと包んだ指先は、私の手を握り返しはしない。その事実が深く心臓を貫いた。彼女にとって私はそうしたい相手ではない。でも、鳩ちゃんは私の手を振り払わず、だから私は彼女を離さない理由をかろうじてつなぎとめていられる。
 海のつめたさが肌に馴染んだころ、かさついたくちびるがそっとひらいた。
「…………ほんとうはね」
 私の手のなかに指先を置いたまま、鳩ちゃんは囁く。
「……たくさん、かんがえてるの。みんなへの、言葉のこと」
 震えたのはどちらの指先だったろう。ひたひたと這い寄る波と、生きもののにおいと、鼓膜をふさぐような潮騒と――それらぜんぶを貫く彼女の声を、聴いていた。
「どれだけあやまったって足りないし、ゆるされるはずもなくて……なにを言う資格も、ないのに、それでも、たくさん、たくさん、伝えたいことがあって……どうしても、長くなちゃって……いつになるかもわからないし、いくら記憶力がよくたって覚えきれないかもしれなくて、」
 彼女は、私の行き過ぎた記憶力を知らない。彼女がこれまで語ったすべての言葉を覚えているなんて、知るよしもない。だから、彼女は私のことを常識的な範囲で人よりも物覚えがよいくらいに思っているはずだ。
 いっとう大切な人の面影を忘れつつあるであろう彼女に、私の秘密は明かせない。
「でも、あたしの言葉を忘れちゃったら、あなたは、気にしちゃうでしょ」
 彼女は、私が善良であることを信じている。
 ほんとうに善良な人間は、彼らの行いを止めるのに。
「だから……もうすこし、まってて」
 彼女が愛しているのは、私ではない。
「きちんと、まとめられるまで……」
 彼女が言葉を遺したい相手も、私ではない。
 それでも、彼女は私のことを考えて、言葉を選ぶのだという。
「……うん、」
 私は彼女の手を握り、海へと誘う波を蹴りながら歩く。塩水を含んだ靴と衣服が重くべたつく。濡れたところを潮風が容赦なく凍えさせていく。鳩ちゃんは痛みに耐えるように下くちびるを噛んでいた。あるいは痛みを与えるように。それをやわらかにたしなめることも、私にはできない。
 だけど、できることもある。
 私にしかできないことが。
「いくらだって待つし、ちゃんと覚えておくから、安心してね」
 私が言うと、鳩ちゃんは笑おうとしたようだった。
 ふっ、と、呼吸と言葉のできそこないがこぼれ落ちる。風と波と彼女の湿ったかすかな呼吸が重なり合って響く。靴の下で波がゆれていた。彼女が落とした涙は海にまぎれてとけた。

「……いまのは、わすれてね」
 しばらくして、おだやかな呼吸を取り戻した彼女が言う。頬はふれればそれだけで裂けてしまいそうなほど赤く、痛々しい。私が「うん」と頷くと、鳩ちゃんは安心したように笑った。
 彼女に嘘をついた。
 できないとわかっている約束をした。
 生まれては死んでゆく波たちの些細な破片すらも――私は覚えている。


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