白白しき

「やめようとおもうの」
 ぽつりと声が落ちて、東は書きかけの指導計画書から顔を上げた。「何を?」問いかけながらも、意識の半分は狙撃手育成について考え続けている。界境防衛機関ボーダーにうまれたばかりの狙撃手というポジションは、その練度にも訓練環境にも、まだ課題が多い。逆に言えば、もっと手をかければ必ず今以上に成長できる。提言者の一人として、東が狙撃手たちの指導に力を入れるのは当然のことだった。学生の本分である勉学よりも――部屋に招いた恋人よりも、だ。
 ふとディスプレイから目を離すと、いつのまにかマグカップが置いてあった。なみなみと満たされたコーヒーはすっかり冷めている。おそらく彼女が淹れてくれたものだが、計画書に夢中で気付けなかった。気まずさに襲われて、思考からタスクが剥がれていく。
「コーヒー、ありがとう」
 今更と知りつつ礼を言ってマグカップに口づける。つめたく、酸化しかけたコーヒーの味だ。ソファーに座る彼女のほうをみれば、空になったマグカップがテーブルのうえにひとりさみしく置かれている。
「どういたしまして」彼女が微笑んでくれたので、すこし安心した。
「それで、やめるって何を?」
 きしり。背凭れに身を預けると、かすかに軋んだ音がする。彼女は微笑んだまま、そのくちびるをそっと開いた。
「ボーダー」
 驚きは、あった。ボーダーをやめる、などと。彼女がそんなことを言い出すなんて、東は今の今まで思いもしなかった。けれど彼女の静かな瞳は、嘘でも冗談でもないと告げている。
「……理由を訊いても?」
 東の知る限り、彼女は上手くやっていた。近界民に対する強すぎる憎悪もなく、戦いに対する忌避感もなく、東とともに狙撃手となり、後進の成長に目を細めてよろこんでいた。
「……春秋くん。わたし、人を撃てるの」
「ああ、そうだな」
「人を、撃てるんだよ」
 微笑みを湛えていた顔が、くしゃりとゆがむ。一瞬、彼女が何を言っているのかわからなかった。人を撃てる。当たり前のことだ。入隊したての彼女を狙撃手に誘ったのは東だった。彼女は持ち前のセンスにあぐらをかかず、誰よりも努力を重ねて、今やトップクラスの技術を持つにまで至った。東にとって、彼女が、あるいは自分が、あるいは後進たちが人を撃てることは当たり前で、人を撃てるように指導することが役目で、むしろ撃てないことのほうが問題で――巡る思考が、すとん、と落ちる。
 ああ。そうだ。おかしいのは、こっちだ。
「……トリオン体だ、っていうのは、気休めにならないか?」
 彼女の隣に移動し、その背を撫でる。彼女は震えるように息をつき、けれどとうとう堪えきれなくなったように、顔を俯かせた。東の視線から隠れるように手で覆われた目には、きっと涙が滲んでいるだろう。
「ならないよ」
「そうか」
「……だって、そうでしょ? 春秋くんだって、そうでしょう? 相手が、生身でも、銃がほんものでも……撃てるんだよ、このからだは、もう、わかる……そういうふうになったって、わかるの……」
 例えば攻撃手なら。射手や銃手なら。その強さの大部分はトリガーとトリオン体に支えられている。敵との間合いが近い彼らは、明確に、己が生身では戦えないと意識する。しかし狙撃手は、違う。もちろん武器の性能という面ではトリガーの恩恵を受けているし、時には移動や近接戦闘の必要もあるけれど、狙撃手の強さはつまり、狙いを定めて引き金を引く技術のことだった。スコープを覗き、十字を重ね、指を動かす。猛りも恐れもなく、着実に。そういう心のあり方をこそ鍛えるべきだと東は思っているし、そこに身体は関係がない。
 だから、それは生身でもできることだった。そういうふうになってしまえば、トリガーなんて必要なかった。
「……ひとが、撃てること、知りたくなかった……知らないままで、いたかった」
 ぽつぽつこぼれていく言葉を、東は黙ってきいていた。不規則に震え、しゃくりあげる彼女の背を撫でながら、言葉を探していない自分に気付いた。もう隣にいられないことを悟り、ふたりで過ごした日々はかんたんに捨てられるものではないとも理解して、自分が本気で望めば彼女は断れないことも承知のうえで。引き止めようとは、しなかった。
 おそらく自分は、彼女のこの白々しいまでものうつくしさが、何よりも好きだったから。手離すべきだと、思ったのだ。


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