殺したいほど憎い女

「東くんは、殺したいほど憎い女っている?」
 かし。缶コーヒーのプルタブに引っ掛けた爪が滑る。「――は?」自分でも間抜けだと思うような声を出しながら、東は回転椅子の背凭れに預けていた上体を起こした。くるりと椅子を回し、隣のデスクの女を見る。東よりひとつ歳上で、同じ学年の院生だ。
「いや、これは雑談なんだけどさ」
 みょうじは頬杖をつきながらコピーした論文をつれづれと読んでいた。ときどき思い出したように右手に持った赤ペンがくるりと回る。
 時刻は午後8時。研究室には二人きり。ここを出たら、ボーダーの防衛任務に向かう予定だった。
「雑談の内容としてそれはどうなんだ」
「あぁ、殺したいほど憎い男でもいいよ」
 眼鏡の奥の瞳は文字を追っていた。東のほうを見ないまま、言葉を紡ぐくちびるだけが問いかける。
「いや殺したいほど憎いの部分を変えてくれ」
「じゃあ殺したいほど愛しい人」
「殺すなよ」
「殺してないよ。殺したいほど――ほら、殺してない」
 そもそも、みょうじはこういう雑談を振ってくるタイプではない。だからいつも東から会話の糸口を探っているわけだが、向こうから話しかけてきたと思ったらこの内容だ。
 面食らいながら、そっと横顔を伺う。何かに疲れて追い詰められているのなら下手な返答はできないが、才媛めいた隙のない面立ちから感情は伺えなかった。普段、比較的素直な歳下を相手にしているせいか、観察力が鈍っているのかもしれない。
 かしり、と今度はきちんとプルタブに指先をかけて、缶コーヒーを開ける。安っぽいコーヒー味に口をつければすこし頭が冴えた。
「……普通に好きな人はいるけど、いや、殺したいはないだろ、ない」
 いや――正直。ランク戦をしているときに、スコープの向こうに例えばみょうじがいたら、と考えたことがないわけではない。自分はそれを撃てるだろうかという思考実験のひとつとして、的に彼女を思い描いたことがある。結果は撃てた。自分が撃つ対象はトリオン体であることが前提条件としてあり、生身は損なわない。となれば、東はそうする妥当性さえあれば撃てる男だ。撃った後の気分は、決して良くはなかったが。
「まあそうだよね」
「みょうじは?」
「いないなぁ」
「いないのかよ」
 じゃあなんで訊いたんだよ、と思ってしまったのは仕方ない。雑談にしても議題の選択が下手くそすぎるだろうと――
「そういう気持ちを向けられてはいるけれど」
「……そう、なのか」
 なんとも反応し難い。「困ってる?」「実害はないから、別に」ぱし。勢いよく回されたペンがぴたりととまる。ぎしりと椅子を軋ませながら、みょうじが東の方へ身体を向けた。
「でもなんか、しんどいよね。人に強い気持ちを向けられるのは」
「まあ……そうだろうな。実害がないって言っても、その、爆弾みたいなもんだろ。いつ爆発して害になるか分からない」
「うん、だから東くんも気をつけた方がいいよ」
「そこでなんで俺の話に……………いや、ちょっと待て」
 嫌な予感がした。背筋が粟立つような――刃が目前に迫ったときの感覚。
「やっぱり気付いてなかった?」
「えっ……俺なのか? その、みょうじが誰かに殺したいほど憎まれてる、原因」
「察しがよくて助かります」
 厳かに頷いたみょうじに手の力が抜けて缶コーヒーを落としそうになる。すんでのところで力を込め直したが、ちゃぷりと揺れて指を濡らした。そっとティッシュが数枚渡される。
「いや、いや……なんでだ」
 誰にも――気付かせていない自信があったのに。ということは、みょうじにも伝わってしまっているのだろうか。東がいま、誰を好きか。
「席が隣だから」
「は?」
「研究室の、デスクが、隣だから、憎まれてる。殺したいほど」
「それマジで言ってるか」
「怪文書の解読をしてみたけどそういうことっぽい」
「怪文書」
「見る?」
「やめとく……と言いたいが見た方がいいな。さては」
「さてはそうです」
 一番上の引き出しを開けたみょうじが、そこそこの分厚さのクリアファイルを取り出す。
「どうぞ」
「おおう……」
「コピーして赤ペンで解説を入れておいたので」
「ご親切に……」
 ちらりと見た紙面にはわざと変えたのであろうおどろおどろしい筆致で文字が刻まれている。そう書いてあるなどという話ではない。呪を込めたように刻まれている。そこに添えられた端正な赤文字注釈がいっそコミカルだ。
「モテる人は大変だね」
「こんなモテ方心底うれしくない。そして巻き込んで悪い……」
「席を決めたのは教授なので。東くんのせいではないよ」
「すまん……埋め合わせは必ず。行きたい店を考えておいてくれ」
「そっちの方が恨みを買いそう」
「……そうだな」
「まあね、実害はないとはいえ鬱陶しくて、もういっそフリでもなんでも東くんと付き合ってやろうかと思ったんだけど」
 あまり見たくなくて薄目で眺めていた紙面から顔をあげる。みょうじはもう論文に視線を戻していた。
「いや、まだ死にたくないわ」
「……だよな」
 この怪文書の差出人もその思考回路もさっぱり理解できないが、ひとつだけわかることがある。みょうじへの脈が断たれた。――なるほど、憎い。


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