この関係に名前はないけれど

「どうかしたかい?」
 組み敷かれた唐沢は、自分を押し倒した青年の顔を見て笑みを浮かべている。その余裕が腹立たしくて、腹の上に乗ったまま唇を合せた。寒さのせいかすこしかさついていて、ひやりと冷たい。噛みつくように吸いつき、舐め、熱を孕んだ吐息が混ざり合う。何度も繰り返し、潤んで赤みを増した唇に優越を得た。そっと顔を離して、様子を伺う。熟れた唇と違って、その瞳に欲情の色はない。
「今日は随分と積極的だね、迅くん」
 幼い子どもを見るような、そういう笑みを浮かべた唐沢が、迅の頬をするりと撫でる。背は迅の方が高いのに、手は唐沢の方が大きかった。肩や、背中も。ラグビーをやっていたからだ、と、唐沢はいつか迅に語った。
 頬を撫でた手が、迅の髪を梳き、くしゃりと乱して頭を撫でる。唇と同じように冷たい手だった。指は長く筋張っている。時々、関節のあたりの固い部分が擦れて、そこからじわりと熱が滲む。
「……唐沢さんは、いつも、消極的だね?」
「そうかな」
 ビジネスホテルの一室。きっちりとシーツで覆われたベッドに押し倒してみても、唐沢に動揺はない。犬かなにかがじゃれついてきているとでも思っているのか、笑みを浮かべたまま迅のすることを見ている。その余裕は一回り以上違う年齢によるものなのか、相手が迅だからか。
 ――どうして。疑問が口をついて出そうになった。ぐっと堪えるけれど、音にならなかったそれは脳内で反響する。どうして、触れてくれないのか。

 迅と唐沢の関係を既存の定義で語るのは難しい。一番近いのはおそらく『恋人』という肩書きだけれど、別に恋人ではない。互いに、好きと言い合っているわけでもない。『セフレ』というのもすこし違う。唇は重ねるけれど、肌を合わせたことはまだない。これから、しようとは思っているけれど。でも、なにか取引や契約をしているわけでもない。『遊び』にも近いけれど、その割には相手のことを尊重する。
 事実としてあるのは、迅と唐沢は唇を許し合う関係だということ。それ以外はひどく曖昧としている。
 強いていうならば、唐沢は叔父のような存在だった。少し離れた場所から、けれど確かに、迅を子どもとして扱う。上司でも、同僚や同士でも、まして友人でもなく、叔父のようだという感覚が、いちばんしっくりときた。叔父とキスをするのか、それ以上を望むのか、という問いは無視することにする。

「……きみのことだから、何か勝算があってこうしているのだと思うが――何に勝ちたいのかはっきりさせなければ、意味がないよ」
 唐沢は目を細めて迅を見ている。照明が眩しいせいだけではないだろう。迅は眉を寄せる。サイドエフェクトは告げていた。言えば、目的は達成される。けれど同時にちらつくイメージとして、唐沢の、なんとも言えない困った笑みがある。困らせたくはないなと思っていた。
 数多ある未来からどれをとっても、迅が唐沢に触れることを望む限り、そこには唐沢の困った笑みがある。笑っていてくれるのはまだ救いのような気もしたけれど、逆に、唐沢から笑みを奪い取る手段があるなら教えて欲しい。
「それとも、こうしていれば俺が降参すること、視えているのかな」
「……そういう未来も、あるかもね」
 鍛えられて厚みのある胸板に額を寄せた。体重をかけ過ぎないように注意しながら、そっと額を押し当てる。ワイシャツの冷たさを感じたけれど、薄い生地はすぐに熱を伝える。迅の熱が混ざって、すぐにどちらのものかわからなくなった。とくとくと心臓の音が聞こえる。迅の心臓よりも脈は遅く、少しだけ胸がつきつきと痛む。唐沢がこの状況に降参することなどない気がした。
「……きみの言いたいことがわからないわけじゃないさ」
 唐沢の手がことさら優しく髪を梳いた。体の内側から響く唐沢の声を聞いていた。鼓動と混じり合ったその声が心地いい。
「ただ、あまり見せられるような体でもなくてね」
 苦笑の気配を感じた。ふ、と短く息を吐き出す音。困った顔をしているのだろうか。
「……鍛えてたんじゃないの、ラグビーしてたんだから」
 唐沢の決まり文句を思い出しながら紡いだ言葉は、笑われるでもなく空気に融けた。うん、と頷きが返ってくる。
「その後、まあ、色々あってね。俺が元々――ここに来る前何をしていたのか知ってるかい?」
 首を横に振った。唐沢のシャツが衣擦れの音を立てる。
「おれは過去は視えないよ」
「誰かから聞いてもいない?」
「逆に誰が知ってるの」
「……城戸司令ぐらいかな。本部長や林藤支部長も勘付いてはいそうだ」
「褒められた仕事じゃないってことぐらいはわかってるよ」
「……そう、褒められた仕事じゃあない」
 ぐっ、と体が持ち上がった。唐沢が迅を胸に抱いたまま身を起こしたらしい。ちらりと唐沢の顔を伺えば、「ラグビーをしていたから」と、いつもの笑みが向けられる。
「傷があるんだ」
 迅が身構える前にその言葉は告げられた。ハッとすれば、そこには、視たことのある困ったような笑みを浮かべる唐沢がいる。
「別に、それ自体が恥ずかしいわけじゃないんだが。普通の病院では診てもらえないようなものを、きみに見せるのは、と、思ってね」
 意味を汲むのに少し時間がかかった。視界が瞬いて、目の前の映像に別のイメージが重なる。傷。傷痕。それは、とても。
「……――銃、」
「どうやら未来の俺はきみに陥落したようだ」
 迅が囁いた言葉に、唐沢がにやりと笑った。
「……ごめん」
「何を?」
「覗き見、したようなものだし」
「別にいいさ。きみが視たということは、早いか遅いかの違いでしかない」
 そんなことを言いながら、唐沢は片手で迅の頭を軽く撫でて、もうひとつの手でシャツのボタンを外していく。一番上、二番目、三番目、シャツの下の黒いインナーが露わになっていく。
「唐沢、さん」
「早いか遅いかの違いだ」
 同じ言葉を繰り返して、唐沢は笑った。シャツのボタンをすべて外し、脱いで床に捨てる。インナーがぴたりと体の線に沿う。迅の読み通り、鍛えられた身体が伺えた。こくり、と鳴らして、その明け透けさに頬が熱くなった。息を漏らすようにして唐沢が笑う。
「見てもいいが、見る意味がわからないきみでもないと思っている」
「……秘密は守るよ」
「そうじゃない」
 瞳の色が変わったように思えた。照明の加減なのかもしれない。けれど、その目にちらりと火が灯ったようなそんな気がして、一瞬だけ息がつまる。唐沢が唇を吊り上げる。けれど視線は爛々と、迅を捉えて。
「手離されたいなら今だ」
 傷痕は、唐沢が生きてきた向こう側の世界の象徴だ。それを、こちら側の世界の人間に晒すことに意味がないはずがない。唐沢が、それを見せるということは、そういう自分を見せるということだ。それは、より唐沢の本質に近いのだろう。
 ――これ以上先に進むと手離す気はないと、唐沢はそう言った。そこまで見て、手離してもらえると思うなと。それを、いっそ暴力的な笑みで、けれど声音は何でもないことのように、唐沢は言う。
 ごくり、と唾を飲み込む。関係性。変化する。視えた未来、困った笑みの向こう側に、こんなものがあると分かっていたら、迅は行動しなかっただろうか。今までのまま、口付けだけに微睡んだだろうか。
 いいや。きっと、そんなことはなかった。
 迅は手を伸ばした。黒いインナーの上から、腹筋を撫でて、爪を少しだけ立てる。
「……唐沢さん」
 言葉はいらないと思った。はいとも、いいえとも、言ってはいけない気がした。何か、この関係を定めるような言葉は不要だった。唐沢と迅はとても不確かな、曖昧な関係で、けれどそれは居心地が悪いわけではないのだ。
 指を、腹筋から、胸のあたりまで。ちいさく円を描いて、またさげる。じわじわと熱が高まっていく。ひくり、と筋肉がふるえるのを感じた。この指から、唐沢の体に、毒のように熱が入り込んでいけばいい。いつも、唐沢の指で迅がそうなっているように。
 自分の腹を撫でる迅の手を、唐沢が掴んだ。迅が視線をあげれば――あげきる前に、唐沢の顔が覆いかぶさって、唇に噛みつかれる。最終通告をうまく無視できたのだと笑みながら、迅は熟れた唇をちいさく食んだ。


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