タマゴ&ハムチーズサンド

 きん、と凍える大気が肺に滲みる。冬の太陽はのんびりと山向こうに揺蕩い、あたりは薄っすらと夜が明け始めた早朝。軋む関節は寄る年波には勝てぬということとしても、寒さも無関係ではないだろう。仰木月久は溜息混じりの呼吸をこなす。白く結露した吐息は淡い。歳を重ねるとつい浅い呼吸になりがちだ。
 すっかり馴染んだ杖を片手に。もう片方にはサンドイッチをいれた手提げ鞄。明けきらぬ朝に響く足音は月久のものだけだった。
 歳をとると嫌になるくらい早起きになってしまう。月子のためにとスープとサンドイッチをつくっても、まだ持て余すぐらいに。時間潰しに散歩を選んだのは気まぐれだった。百合子が好んでいたせいもすこしはあるかもしれない。
 書置きもダイニングテーブルに残してきたし、朝から開店準備に追われることもない気楽な身の上だ。年相応に重い足は少々の不安材料ではあるが、まだ元気で健康な方だと自負している。
 なにより街の安否をこの目で確かめられる。このあたりはあの化け物が現れたとはいっても被害は少なく、馴染みの家も変わらぬ様子で並んでいる。孫よりもずっと容赦のない思考はそれを素直に良しとした。
 サンドイッチを食べるなら、やはり公園がよかろう。徒然と進めていたつま先が目的地を思い描いて軽くなる。木々が多く、噴水近くにベンチのある公園。月子が幼いころはよく遊びに行ったと懐かしみながら、角を曲がった。


 はっと息を呑むような光景に、足を止めたのはほんの一瞬だった。
 いかにも冷たそうな飛沫をあげる噴水の傍ら、少年が鳩に囲まれていた。ぼんやりと空を見上げる横顔は表情が薄く、髪は真っ白だ。老いによる白さではなく、綿毛のようにやわらかく雪と同じに純然とした白である。鳩が数十羽、少年の足元に侍っている。
 かつ、と杖が思いがけず音を立てる。白い髪の少年はその赤い瞳で月久を捉え、鳩たちは一斉に飛び立つ。その翼がとぎれとぎれに視線を遮り、けれど逸らすこともできない。ちかり、朝陽が瞬いて少年の輪郭が淡く透ける。
 ――似ている。
 直感が囁いた。浮世離れした雰囲気も。何もかもから取り残され佇むさまも。仰木百合子に、あまりにも。
「コンニチハ」
 先に口を開いたのは少年だった。高く幼く、けれど鋼を鳴らしたときのような澄んだ響き。
「おはよう。いや、きみ、早いのう」
「ははは」
 気の抜けるような笑みがかろうじて少年を現世に繋ぎとめるようだった。赤い瞳に浮かぶ色は警戒というには柔らかいが、親愛と呼ぶには遠い。友好的、ぐらいが相応しいだろうか。
「おじいさんこそでは?」
「早く起きてしまってね。散歩でもしようかと」
「ほほう。おれと似たようなものですな」
 不思議な喋り方をする少年である。彼は月久が傍に寄るのを待ち構え、露骨でない程度に密やかに観察している。
「このあたりのことはよく知っているけれど、あんまり見ない顔だね」
「……ふむ。キコクシジョ? というやつで、最近こっちに来たもので」
「おや、それは三門市民として歓迎しなければ」
 笑みを交えて告げれば、きょとんと月久を見上げる。ややあって訝しむように細められた瞳は腹芸を知らないのか、あえての牽制なのか。年齢も相まって計りかねる。
「ここには朝食を食べに来たんだけどね」
 サンドイッチの入った手提げ鞄を持ち上げる。つい、と瞳が動いた。
「よかったら少しどうだい」
 誘った理由を選ぶなら、一番はやはり何にもおいて『似ている』ということだった。仰木百合子。月久が生涯でただひとり得た伴侶。他意はあってないようなものだ。
 少年はじっと月久を見つめたが、逡巡は数秒だった。「ふむ」と頷いて、したたかそうな笑みを浮かべる。
「ゴチソウになります」

 クガユウマ、と少年は名乗った。どんな字を書くのか尋ねてみたが自分ではうろ覚えのようで、宙にふにゃりと描かれた軌道を察するに『空』と『真』を使いそうである。
「こうかのう」
 自販機で買った熱々のコーンポタージュとサンドイッチの手提げ鞄をはさんでベンチに座り、杖で地面に文字を書く。空閑、悠真。指の動きからして画数が多そうだった。
「こっちの字はちがいますな。……あそぶって書く」
「ああ、それじゃあ『空閑遊真』くんか。うん、こちらの方が収まりもいい。いい名前だ」
 悠の字を消して書き直しながら、迅くんとは違う字か、と見知った青年の顔を思い出した。彼には疾くと孫娘の憂いをどうにかしてやって欲しいところだが、急かしてしまうのも勿体無い。静観の構えを決めていた。
「ドウモ……おじいさんは?」
「仰木月久だ、空閑くん」
 『空閑遊真』の隣に『仰木月久』を書き添えると、空閑が覗き込むようにして見る。ふむ、と頷きそっと目を細めた。
「よいおなまえで……」
「ありがとう」
 評論家のように顎に手を添えながら言うものだから、笑みを抑えきれなかった。
「さて、冷めないうちに食べようか」
 声をかけると、空閑は「そうですな」と応じる。コーンポタージュのプルタブを引っ張り、ぱこりと開けると空閑も真似た。
 ひとくち飲めば火傷しそうなほど熱い。自販機のものだから仕方ないが、味は悪くない。企業努力の賜物よなと思いつつ、ほおっと吐息をこぼす。冷えた指先に熱を移してから、手提げ鞄からサンドイッチを取り出した。
 食パンを対角線で切った小さな三角形が四つ。トマト、レタス、ハムにチーズを挟んだハムチーズサンドがふたつと、タマゴサンドがふたつ。昼食が遅く、軽くなりがちな月子のためにボリューミーに作ってある。月久には二つとコーンポタージュで丁度いいし、少年ならぺろりと食べてしまえるだろう。
「みごとなさんかく……」
 ラップに包まれたサンドイッチは均整のとれた形をしている。タマゴサンドを手にとり、しげしげと眺める姿を横目に捉える。自分のぶんのラップを外せば空閑も続いた。
 七分茹での卵を均等に刻んで、控えめなマヨネーズに辛さの柔らかなマスタードと和え、塩胡椒で味を整えてある。隠し味に三温糖と醤油を少しだけ加えて、マーガリンを塗った薄切りの食パンに挟んだ。散歩しているうちに具材とパンも馴染んでいるはずである。
「いただきます」
「イタダキマス」
 月久のあとを追従するような空閑は、食べるのも先を譲った。ひとくち齧ればしっとりやわらかなパンが舌にふれ、タマゴがまったりと広がる。マスタードが味を引き締め、ほのかな甘みと香ばしさが食べ飽きない味をつくるのだ。昔から作っているものだからその味に驚きはないけれど、今日も満足のいくものができたと頷いた。
「おお」
 空閑もひとくち食べたらしい。もっもっと口の動きが落ち着いたのを見計らい、「どうだい」と感想を求めると、「うまい」という端的な答えが返ってくる。ぱくぱくと食べ進める様子は見ていても気持ちがよく、笑みがこぼれおちる。思えば孫娘と公園に来たことは多くとも、息子とはほとんど来ていなかった。息子が――三月みつきが父親として上手に振る舞えないのは、そのあたりも関係はしているのだろう。
「……どんどんお食べ」
 早々に一つ食べ終えた空閑に告げ、口の横にパンのくずがついていることを指摘しておく。
 ハムチーズサンドのほうの味付けはパンに塗ったマーガリンとマスタード、それから塩とドライパセリを少し。レタスはしゃっくりとした部分を使って、トマトは食べやすい大きさに切ってある。
「これもうまい」
 素直な言葉がうれしかった。空閑の食べっぷりにつられるように食も進む。自分は人と楽しく食事をしているのに、月子のことは一人にして申し訳ない気持ちになってきた。気にすることはないと思うのだが。薄情ではないにしても淡白なところはある。
 ハムチーズサンドにかじりついた。柔らかなロースハムに、濃厚なチェダーチーズの風味が合わさる。それだけだと味が尖りすぎるから、シャクと食感の楽しいレタスに甘みのあるトマトで角をとった。美味しいサンドイッチにはとにかくバランス感覚が重要だ、とはカフェ・ユーリカにパンを卸しているブランジェリーの言葉である。
 サンドイッチを食べ終えて、ずいぶんと昇ってきた陽の光を浴びる。それでも気温は低く、厚着をしていても骨身に滲みる寒さがある。そろそろ散歩も切り上げるべきだろうか。ちらりと隣の空閑を見る。散歩を終えるにしても、彼のことは気になった。
「空閑くんのこの後の予定は?」
 コーンポタージュを飲む横顔に問いかける。かし、と飲み口を齧っていた空閑が月久を見る。
「人に会うヤクソクがありますな」
 気負いなく返された言葉に心のなかでそっと息をつく。よかった。その和らげられた表情からして、悪い関係の相手ではない。仰木百合子のように、頼るあてが全くないわけではないのだ。
「ただ待ち合わせまでだいぶある」
 くちびるを尖らせて空閑が続けた。「時間を持て余している?」と訊いてみる。「ヒマです」と、やはり端的な答え。
「ではもう少し、この爺やに付き合ってはくれんかのう?」
「ふむ……」
 じっ、と赤い瞳が月久を見つめる。笑みを浮かべながらその視線を受け止めた。
「理由きいても?」
 さあ、なんと答えたものか。目の前の少年が気になることに違いはない。心配にも疑念にも届かない興味。隠すほどのことでもない。
「好きなんだ――新しいなにかを見つけるのが。今日はそれが空閑くんだった、というわけだな」
 赤い瞳にさらされたのはほんの数秒だ。ニヤリ、と笑った空閑が「お目がたかい」と頷く。いまいち冗談なのか本気なのかはわからないが、交渉は成立だ。
「では手始めにわしの……わしの孫がやってるカフェに行かんかね。この寒空の下にずっといては凍えてしまう」
「……なるほど。たしかに」
 朝食を終えたばかりで胃は温いが、指先は早くも冷え始めている。袖から伝う冷気が心臓に届く前に帰ったほうがいいだろう。空閑はともかく、月久は若くない。
 吐息の白さを思い――そこで気付いた。隣に並んだ少年は、何の変哲もない。その吐息の温度のなさといったら。指先の、鼻の、耳の、寒さに赤くもならない熱と血の気のなさ。いっそ作り物めいている。
「どうかしましたかな?」
 訊ねたのは空閑だ。自分に負けず劣らず古めかしい言葉遣いにふっと笑みを漏らしながら応える。
「いいや、なんでもないよ」
 一瞬、赤の瞳に陰りが見えた気がしたが。空閑は「そうか」と頷いてそれ以上は何も言わなかった。
 カフェ・ユーリカのオープンにはまだ時間はあるが、鍵を持っているので問題はない。空閑を迎え入れるついでに準備もすこし済ませておけば月子も硬いことは言うまい、と算段を立てる。
「さ、行こうか」
 声をかけると空閑が軽い動きで立ち上がる。月久も関節を軋ませながら腰をあげた。

   *

「カフェ・ユーリカは如何でしたかな?」
 からんっ、と鳴ったドアベルの音色が収まってから、隣の少年に問いかける。
「居心地がよかったですな。いろいろあって」
「それはうれしい。わしが集めたものもあれば、人が置いていったものもある。どれも気に入っているんだ」
「ふむ……うらやましいかぎり」
 腕を組み、顎に手を添える少年は身軽だ。何も持っていない。何にも染まっていない。それは自由で、けれど寄る辺を持たないということ。
「――持ち物は、そのうちいっぱいになるよ。きみが望もうと望まなかろうと、三門はそういう街だからのう」
「……嘘じゃないみたいだ」
「無論、心からそう思っているとも。……さて、手始めに自転車だったか」
「おお。そうでした。よろしくお願いします」
「うむ。ま、乗れるようになるのは大変かもしれんが――友達にでも教えてもらうといい」
 空閑も、孫娘も、青年も。ひとりで生きていくのに不都合のない強さがある。ともすれば、ふたりになることで弱くなるかもしれない、ひとりの強さを持っている。
 だけれど、弱くなるのも存外わるくはないのだと、かつてひとりだった男は微笑むのだった。


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