ホワイト・ヌガー

「古巣の居心地がいいとは、おまえもまだまだよのう?」
 態とらしいほどの老人口調で話す父のことが、仰木三月みつきはあまり好きではない。拠点の一つであるダミー会社の役員室、建前上はこの部屋の主である三月を差し置いてふかふかの椅子に座った仰木月久は、にこりと笑って息子を出迎えた。
 ふらりと夜が漂うように、老爺はこの部屋にいた。夜明けも近い時刻だが、空はまだ月と星のもの。そんな外と完全に切り離された部屋のなかは、暖色系の灯りに満ちている。人のコレクションを勝手に漁ったらしく、最新鋭のスピーカーからは耳慣れた音楽が淑やかに流れていた。重厚な仕事机の上に黒々と波打つ珈琲と白いヌガーを置き、胸元のタイを少しばかりゆるめた翁は、実にくつろいでいる様子である。
 いかにも好々爺に整えた外見は人畜無害の皮を被ってはいるが、そうでないことはよく知っていた。息子としても、同じ〝組織〟に身を置いた後輩としてもだ。
 驚きはしたが、それを顔には出さない。顔に出せばつけこまれるし、つけあがる。己の動かない表情筋に感謝しながら、三月は蒼みがかった黒い瞳をわずかに細めるに留めた。
「……定年退職後も働くほど労働が好きとは知らなかったな」
「定年退職なんてあるホワイトな職場じゃあないからなぁ。まあ、おまえさんたちも努力はしているようだが……わしのようなご老体が腰を据えれるほど旧体制のままとは情けない――励めよ?
 さておき、ジョン・R・ポールの資料を見せてもらおうかの」
 彼の目当ては三月が手元に抱えている封筒の中身らしい。三月が所属する組織――いわゆる『悪の組織』が追っている、最近業界を荒らしている新参者に関する書類だ。外部との渉外を担う三月に回ってきた案件で、手元にあるのは部下のひとりが纏め上げた報告書だった。
 直接それを手渡してきた部下から、すでに概観は訊いている。思っていたよりも厄介そうだと眉間の皺を解しながら執務室に入れば、月久がいたというわけだ。
「わざわざ出張ってくるとは、やはり何かあるのか」
「なあに、ちょっと懐かしいやつの匂いが漂っているだけのことよ」
 ホッホッホ、と笑い声をあげる芝居がった振る舞いに溜息を吐いて、三月は彼の前にある机へ、雑に封筒を滑らせる。
「Merci」
 パチン、とおくられたウインクは無視して、来客用のソファーにどかりと腰を下ろした。
 ふうむ? と唸りながらも書類を見つめつつ、珈琲に手を伸ばした父を横目に見る。
 三月は、月久と入れ違いに組織に入った。それ故にともに仕事をしたことこそないが、『二世』として彼の影は何かと付き纏ったものだ。
 引退したならしたで、大人しくボケながらカフェのマスターをしていればいいものを、彼は組織に戻ってきた。組織の重労働を身に染みて理解する三月としては意味がわからない。
 定年退職後の再雇用が最近の流行りよな、なんてふざけたことをふざけたふうにのたまったとき、三月はこのジジイはとうとうボケたのかと思ったほどだ。けれど決してそんなことはなく、かつて築いた功績と、衰えるどころか鋭さを増した人間性によって、三月を除いた上層部から歓待を受けての再雇用と相成った。もう二年ほど前の話だ。
 それ以来、老体に無理矢理鞭打ってる様子などもなく実に楽しそうに、自由に世界を飛び回っている。その仕事振りは組織のために、というよりは、組織を利用して何かを企んでいるようだった。そのことは上層部も含んではいる。許されているのは彼がもたらす利益と、それから組織の不利益をもたらさないという内容の契約によるものだ。
 日本の地方都市で経営していたカフェ――三月にとっては実家であり、彼にとってはなによりも大切な場所を、自身の孫、つまりは三月の娘に明け渡して、この翁が血生臭い世界に戻ってきた理由はまだ訊いていない。訊くだけ無駄だからだ。性格はよく知っている。基本的にクソジジイだ。
「……三月よ」
 いつになく深刻な低い声に名前を呼ばれて、カチコチと音を立ててる時計の秒針を見つめながら応えた。
「懐かしいやつの匂いは気のせいだったか?」
 自然と、声に剣呑な響きが混じる。もしも彼が懐かしいと表現するような人間が絡んでいる場合、事態は三月や組織が考えていたよりも大きなものになるからだ。月久がわざわざ覚えているような相手となれは、何者かまではわからないが、それなりの大物なのは予想できた。
「いや、老眼鏡あるかのう?」
「ないッ!」
「若さとは素晴らしきものよなぁ……」
 とことんこちらの気を削いでくる爺に語気が荒くなったが、それに怯むかわいい爺でもない。ごそごそと漁る音がする。机の引き出しを開けたのではないことは音の種類でわかっていた。見れば、自分のものらしい鞄に手を突っ込んで、手探りで何かを探している。出てきたのは眼鏡ケースだ。中から取り出した銀縁眼鏡をかけて「おぉ、よく見える!」と喜びの声をあげる。
 あるんじゃねぇかクソジジイ、と言いそうになったが、喜ぶだけなのでやめた。暴言に興奮するマゾヒストというわけではない。彼は向かってくるものを叩き潰すことに長けているし、なによりそれを楽しむサディストだ。
 この苛立ちは肉親であるからこそ感じるものだろう。珈琲が飲みたい、と思った。飲もうとすれば月久が割り込んできて、わしが淹れてやろうと言うので飲めないが。どうせなら娘の淹れた珈琲が飲みたいし、どんな形であれ月久に甘えるような真似はごめんだ。父に甘える、響きだけでぞっとする。
「……おまえに言おうと思っていたことがあってのう」
 しばらく黙って報告書を読んでいた月久が、ぽつりと零す。その態とらしい口調をやめろ、と言いたいのを抑え込んで、三月は短く「なんだ」と答えた。
「月子のことなんだが……」
 出された名は、三月の娘のものだった。月久に代わり実家のカフェを継いだ、三月の唯一の子ども。実家のある地方都市――三門市は、色々と面倒なことになっているので本音を言えば継いで欲しくはなかったが、三月は彼女にそれを言ったことはない。もう成人し、一人の人間である彼女が決めたことに、いくら父親といえど口を挟めるわけがなかった。いやむしろ、三月のような父親が、今さら口を出すわけにはいかないのだ。
 それでも、三月にとって仰木月子という個人は、常に気にかける存在ではあった。
「……何かあったのか。例の――ネイバー、とやらか?」
 故郷である三門市を襲っている怪物のことが頭によぎった。四年ほど前に怪物たちが初めて現れたとき、三月はヨーロッパにいたし、娘は県外の大学に通っていた。三門市にいたのは目の前の翁だけで、しかも殺しても死なないクソジジイなので、街の心配はしつつも故郷には帰らず復興資金だけを送ったのだった。
 しばらくすると、ネイバーを倒し、またネイバーに対する知識を持った〝界境防衛機関ボーダー〟という謎の組織が出来上がった。そのあたりが、あの街が色々と面倒なことになっている所以である。その存在自体は、侵攻以前から観測はされていたが、まさか化け物と戦う組織であるとは組織本部の上役たちも思っていなかった。
 ボーダーが立ち上がる際に優秀な部下をひとり手放すことになったのは手痛い思い出だ。あの街に何かしらの思い入れがあったらしい彼を引き止める気もなかったが。その優秀な元部下の手腕によって、組織はボーダーに手を出さないことで話が纏まっている。
「ネイバーとやらも、それからボーダーも関係ありせんよ。いや、ボーダーは関係あるかのう?」
 くっ、と悪どく喉で笑う月久に辟易しつつも挑発には乗らないように冷静さを保つ。手のひらで転がされるのも慣れていた。慣れているだけで不快ではあるが。
「何があったか結論から言え」
「余裕がない男は嫌われるぞ?」
「無駄口の多い男も、だろう」
「おぉ、こわいこわい。おまえ、月子にそんな顔や言葉で話しかけてないだろうな」
「……、」
 この翁を相手にするような強い口調で接したことはないが、娘の前で特別に表情を変えるようなこともしていない。強面であることは自覚しているにも関わらず、だ。
「ふうん、図星か。まったく本当におまえは愚息の鏡だなぁ、ええ?」
「そこまで無駄口を叩く暇があるなら緊急の要件ではないんだな」
「それを判断するのはおまえだろう?」
 つくづく性格の悪いことを言ってから、月久はようやく本題らしき言葉を紡いだ。
「まあ、きっとおまえが言うように大した用件ではないのだろうが――どうもボーダーの男に惚れられてるみたいでの」
 空気が凍る。三月の耳に言葉が残り、こだまする。惚れられている。娘が、男に。
「…………」
 もしもここに三月の部下がいたなら呼吸すらもままならないであろう重圧に晒されて、けれど月久は気にしたふうもなく書類をぱらぱらとめくる。
 書類を読み終えた月久が、トントンと乱れた角を揃えた。
「ふむ、この案件はわしに任せておきなさい。なあに、懐かしい顔に挨拶せねばならんからなぁ。ちょうどいい。なにせ、わしももう永くない、身辺整理はしておかねば」
 書類を封筒に戻して、月久はそれを鞄に仕舞う。老眼鏡も外してケースに収めた。どっこいしょ、という声とともに、ぎぃと椅子を揺らして立ち上がる。
「ではな、三月。たまには家に帰るようにしておくれ。……三人でお墓参りも行かねばならんのだから」
 あいつ、たぶん怒っとるぞ、と軽い声が続く。
 あんたが留守にしていたときこそ母さんは怒っていた、というのは、母を亡くしたときに散々ぶつけているので、口答えはしなかった。
 とさり、と雑に放り投げられた個包装のヌガーがローテーブルの上に落ちる。資料の礼のつもりなのだろう。三月がそれに喜んだのは物珍しかった少年の日のたった一度だけで、べたつくそれのことはあまり好きではない。わかってて置いていくのだからタチが悪いと思った。
「少しぐらい休んでもバチは当たらんぞ。……ほれ、仕事はわしが奪ってしまったしのう?」
 けれど少しだけ、ひそやかな息遣いは許されるといったぐらいに本当に少しだけ、空気が緩む。
「ああそれとな」
 扉の前で振り返った月久が、至極楽しそうに告げた。
「月子に惚れとる男、おまえより数段いい男だったぞ。あれはあの子も――満更ではないかもの?」
 なんとはなしにつまみあげていたヌガーが手の中で潰れる。「おぉこわい」と、のんきな呟きを残して、月久は部屋を出ていった。
 破けた包装からこぼれ出たヌガーがべたりと張り付いて不快な感覚を与える。三月は汚れていない手で携帯端末を取り出した。送信先の欄に直接入力でアドレスを打ち込む。送る先は娘と同じく三門市に居を構えているはずの元部下だ。
 元部下と三月の間にあった連絡手段は、向こうが組織を抜けるときに、互いの安全性を考慮し全て抹消している。けれど、万が一の場合に備えて彼の現在の連絡先は調べてあった。彼が所属しているボーダーも、この組織と同じくなにかしらの秘密を内包している。それが組織に――いや本音を言えば娘に危険が及ぶ可能性を考えての手だった。元部下が娘に何かするとは思っていないが、それとこれは別だ。
 『悪の組織』らしく非合法な手を打って、元部下にも秘密裏にしていた一方的な連絡手段。それを、三月は使おうとしている。
 蒼みがかった黒の瞳が画面を見つめた。光を反射して蒼が強まる。ただでさえ強面と言われるような顔が常に増して険しい。視線の鋭さと眉間に刻まれた皺さえなければ、鋭利ではあるものの秀麗な見目と言えるのに、と月久がいたなら揶揄っていただろう。
 短い文章をしたためる。月久が相手ではその限りではないが、三月はもともと口数が多くはない。言葉を削ぎ落としすぎかとも思ったが、あの優秀な元部下なら意図は汲めるだろう。送信を押せば、ものの数秒で地球の裏側へと届くのだから便利な時代だ。
「……」
 はたと冷静になってみると、職務時間に自分は何をやっているのかと思った。いやこんな時間まで働かせる、定時上がりもなにもない組織だが。
 あのクソジジイが現れると碌なことがない。五十年近く生きてきてその教訓が破られたことがないのだから、やはり三月にとって月久は好きになれない存在だ。その感情も、自分が青年だった頃に比べれば随分と角が丸くなってはいるが。
 三月はひとまず、べたりと張り付いたヌガーを落とすために立ち上がった。

   *

 久しぶりにまとまった時間が空いた唐沢は、カフェ・ユーリカを訪れていた。手土産は駅前で購入したフランス産のフルーツジャムだ。店主である月子は余り物ではないならと遠慮したが、なにかと甘やかしてやりたいのが兄を自認する唐沢のさがである。ジャムを受け取らせることはできたので、唐沢としては満足感があった。
 いつも通りにオーダーコーヒーを注文し、今日はどんな珈琲が出てくるだろうかと考えていると、仕事用の端末が震えた。新しいメールを受信したらしい。名前は表示されず、差出人のアドレスは覚えのないアルファベットの羅列だった。件名は空っぽだったが、仕事柄、怪しいメールであっても確認するようにしている。抜き取られて困るような情報もこの端末には入れていない。
 メールを開いて、そこに並ぶ短い文字をみて――唐沢は後悔した。その端的な文字列で意図がわかってしまう己のことが少し憎いとすら思う。
「……どうしたものかな……」
 思わず漏れた些細な呟きをしっかり拾ったのか、カウンターの中から視線が向けられる。それを気配で察しつつ笑みを浮かべようとしたが、らしくもなく頰が引きつった。
 ちょうど仕事の話がしたかったので、おそらくホットラインと思われる連絡先を知れたのは僥倖ではある。けれどそれを補ってなお有り余る厄介さに、唐沢は細く息をつくのだった。


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