ガトー・シャンティ

 月子に迅の誕生日を教えたのは唐沢だった。春らしい小雨の降った昼下がり、珍しくゆっくりと過ごしていた唐沢が『彼、そろそろ誕生日だね』とぽつりと呟いたのだ。彼とは誰なのかと訊けば、『知らないならいいんだ』と緩やかな笑みを浮かべられて、それでも妙に気になって聞き出した。『月子ちゃん、俺の誕生日にはそこまで興味持たなかったじゃないか』なんて、昔のことを持ち出しつつニヤリと笑った唐沢はなかなか教えてくれなかったが。けれど、帰り際にひとこと、『迅くんだよ』と、少しからかいを含んだような笑みを浮かべて教えてくれた。
 迅くん、と、月子からも唐沢からもそう呼ばれる迅は、四月九日で十九歳になるらしい。ついこの間まで高校生だったのだから十九歳になるのは当然だけれど、思っていたよりも早い誕生日に驚いた。歳のわりにやけに大人びてみえるのはそのせいもあるのだろうか――そんなことを思いながら、閉店後のカフェ・ユーリカのキッチンに、月子はひとりで立っていた。珈琲の香りに混じって、あまいにおいがふんわりと漂っている。
 月子は手元の白いかたまりに視線を落とした。なにか、と思った心が体を動かすまま仕上げたそれは、決して悪くない見た目をしている。これも日々……とまではいかないけれど、週に二回カフェ・ユーリカの〝本日のケーキ〟をつくっているおかげだろうか。初めてつくったときよりも手馴れた出来のそれは、月子がプレゼントされたら、きっと嬉しい。
 けれど、迅が、月子からこれを贈られて喜ぶかといえば、微妙なところではあった。それも別に会う約束をしていたわけではないのに、明日までしか日持ちしないものをつくってしまったことに頭をかかえる。こういううっかりは、自分らしくない。
 じっ、とそれをみつめて。ひとつ、ため息をこぼして。まあいいか、と囁いた。
 小さめにつくったそれは、一人で食べられないこともない。無駄になってしまったなら、夕飯のかわりに月子が食べてしまえばいい。二十をこえてからお腹につきやすい体のことを思うとちょっと踏みとどまりたい気持ちはあったが、勝手なことをしたのは月子だ。
 透明なカバーを被せて、冷蔵庫のなかにしまう。くっ、と伸びをして、エプロンを外した。クローズの作業も、なんなら自分の夕飯も、すべて済んでいる。あとはシャワーを浴びて寝るだけだ。それだけ準備を整えて手がけたそれは、決して勢いだけのものではないのだけれど――つくろうと思ったのは、やっぱり、勢いだろう。
 唐沢がわるい、ということにする。ああいう言い方をされたら、何かしようかなと思って当たり前ではないか、と。それから、祖父と祖母のレシピノートもわるい。なんとなくページをめくっていれば〝Gâteau au chantill〟と他のレシピには使われていないアルファベットの文字が目に飛び込んできて。物珍しさにめくるのをやめれば、『誕生日はこれ』なんてメモ書きまで添えられていたのだから、これは、レシピノートもわるい。というか祖父がわるい。
 冷蔵庫にしまわれたものを思いつつ、月子はあくびをかみころして、自室へと引き上げた。

   *

 カフェ・ユーリカの扉の前で、迅は佇んでいた。扉の前、敷かれた石畳にどこからか舞い込んだ桜の花弁が溜まっている。もうすっかり春だ。あの茹だるような夏からずいぶん時間が経ったと、妙な感慨にふける。
 月子とは、日々通ううちに、それからクリスマス、バレンタインと過ぎていくなかで、迅なりに距離を詰めてきたつもりだ。彼女が自分を子どもとしか思わない理由のひとつだった制服も、つい先月、ようやく脱いだ。月子は、まだ自分を対等な大人とは見ていないだろうけれども。それもあと一年だ。大人の大義名分を得るまで、あと一年。
 今日は迅の誕生日だった。今日という日を、迅は前から何度も見ていたから、どんな一日になるかは知っている。未来視のサイドエフェクトが見せるままに、朝は陽太郎の『たんじょうびおめでとう、じん!』という大声で目覚めたし、リビングに朝食を並べていた木崎には『今日は早く帰ってこい』と言われたし、小南は『わかってると思うけど、あとで言うわ』となぜかちょっと怒っているような声で言われた。林藤には前から今日はおまえ休みと言われていたし、迅が出かけることも心得ているようだった。玉狛支部の人々は一部しかカフェ・ユーリカのことを知らないし、ましてその店主に寄せている想いなんて知らないはずなのだが、このぶんだと勘付かれてはいるのかもしれない。
 昼は嵐山に呼び出されて、なにかと忙しい彼に本部の食堂で昼食を奢られた。やいのやいのと人が集まってきて逃げ出すのに苦労したが、うれしい悲鳴というやつなのだろう。
 そうして本部を出てカフェ・ユーリカに着くころ、店内には月子しかいないだろうというのも、少し前に未来を見て知っていた。それでもつい、扉の前で立ち止まってしまったのは、緩みそうになる頰を律するためで。
 こういう未来が自分にあっていいのだろうかと、そんなことを時々考える。けれど迅のそんな思いとは別のところで誰かがその用意をしてくれているということは、幸福以外のなにものでもなくて。だから、この未来をあえて崩そうとも、思いはしない。
 息を、ひとつ吸って。それから、緩む頬のことはもう諦めて。迅は扉を開いた。
 ――からんっ。
 いつもと同じ音を響かせるベルに、カウンターの中にいた月子が顔をあげて、こちらを見る。
「いらっしゃいませ、迅くん」
 扉をあければ、外へとあふれた珈琲の香りと、春の花をまとったにおいがぶつかって、そこに月子の声がやわらかく響く。迅はこの扉をあけて、カフェ・ユーリカに、月子に、こうして出迎えられるのがたまらなく好きだった。
「た、……今日は風が強いみたいですね」
「春一番ってほどじゃないけど。桜ももう咲いて、散り始めてるけど、見た?」
「ええ、川べりのを。少し歩いたくらいでしたが、綺麗でした」
「うん、おれも見たよ。毎年のものだけど、毎年ちゃんと綺麗だよね」
 と、会話を続けながら、迅は特等席に座る。椅子に座って見上げた月子は、すこし落ち着かない様子だ。なんだかそわそわしているようにみえる。迅はその様子を眺めながら、にんまりと笑みを深めた。ああ、これはずるいだろう、と。彼女の、というか、彼女との未来は見にくいが、今日に限ってはもう知っている。でも、もう見ていたはずなのに、何度目かの光景であるはずなのに、飽きることはない。
「ねぇ、月子さん」
「はい」
「おれ、今日誕生日なんだよね」
「ぞ、存じ上げております」
 なんで、そんな、低姿勢。と、ちょっと笑って。動揺している月子に、白々しく驚いたような顔をつくって、「なんで知ってるの?」と問いかける。
「……ひみつ、です」
「んー……東さんか沢村さん?」
 月子が誰から誕生日のことを聞いたのかは、残念ながら読み逃している。教えるとしたらこのあたりだろうか、と心当たりの名前を告げれば、「さぁ?」としらを切られた。まあ、そこは別に重要ではないので構わない。誰が教えてたのか判明すれば、その人物にお礼をこめてちょっとサービスしようかなと思っていたぐらいだ。
「それよりも。お誕生日おめでとうございます、迅くん」
 ぴっ、と居住まいを正した月子が、ことさらやわらかく言葉を紡いで微笑む。
「……うん、ありがとう」
「ええっと、それでですね、ちょっとしたプレゼントというか……その、」
「何かくれるの?」
 にやついてしまうのをどうか許してほしい。だって迅にはぜんぶ、見えてしまっているのだ。
 困ったような気まずいような、微妙な表情を一瞬だけ見せた月子がしゃがんで、カウンターの下にあるらしい冷蔵庫を開く。
「あの、ですね」
「うん」
「よく考えたら、私からこういうものをお渡ししても、困るだけだとは思うのですが」
「そんなことないよ」
「せめて見てから言ってくださいね」
「じゃあ早くみせて?」
「う……、あの、一応、小さめにはつくったんですが」
 月子が取り出したのは、小さな丸いケーキだった。小さな、とは言っても、迅の手のひらくらいの大きさはある、ホールケーキ。真っ白のクリームにイチゴの赤がみずみずしくて、ところどころに添えられたミントがより鮮やかに見せる。
「ケーキだ」
「祖父のレシピ通りに作ったので、味は保証します」
「月子さんの作るものを疑ったことなんてないよ」
 緩む頬をそのままに告げれば、月子もつられるように笑みを落とす。ほっと胸を撫で下ろしているのを目を細めて見つめた。
「これ、おれが食べていいの?」
「はい。あの、でも、大きすぎましたよね。食べきれなかったら残して大丈夫ですから」
「月子さんが作ってくれたものを残すほうが申し訳ないんだけど」
「太っちゃいますよ」
「運動するから平気。あ、心配してくれるなら、半分こしようよ」
 さも今思いついたように言えば、でも、と月子が口ごもる。このひとは、仕事中はあまり休憩したがらないのだ。そういうところも好きなところではあるのだけれど、今ここには、迅と月子しかいないのだから、すこしくらいくだけてもいいだろうと思う。
 ホールケーキを用意しておいてひとりで食べさせようとするなんてひどい人だと笑えば、月子は「お手伝いします」と苦笑した。
「……じゃあ、半分に切りますね」
「うん、ありがとう。すごい、嬉しい」
「よろこんでいただけたなら、つくってよかったです」
「……いつも作ってるの?」
「え?」
「常連さんの誕生日に」
「いいえ。初めてです」
 はじめて、という言葉に。そこにあるかもしれない特別に、心がそわりと浮き足立つ。すこしだけ、自惚れてもいいのだろうか。これは彼女が優しいから、優しさゆえの義理だけで用意されたものではないと。
 迅のために――他の誰でもない迅のためにつくられたものだと。そこに迅が抱いている想いと同じものを見出すのは、できないにしても。全くないとは、思わなくてもいいだろうか。もしもそうなら、それは思っていたよりもずっと、心臓がうるさくなる。そわそわして、いっそ爆発でもしてくれたほうがマシなくらいだ。
「十九歳、ですね」
 ケーキを切り分けながら月子が囁いた。独り言のようなそれを拾って、笑う。
「十九歳の月子さんってどんな感じだった?」
「どうでしょう。そんなに変わっている気はしてないのですが、他の人からみると、違うのかもしれません」
 月子らしい言葉だなと思う。十九歳の月子を、ちょっと見てみたかったと思った。たとえ同い年に生まれていたとしても、なんだか敵わない気がするのは惚れた弱みだろう。
「迅くんは、はじめて会ったときから、ちょっと変わりましたね」
「……そう?」
「はい。これからも変わっていくのだと思うと、若さが眩しい限りです」
「そんなこと言ってくるの月子さんぐらいだけど」
「それはたぶん、私の欲目というやつです」
「親の欲目じゃなくて?」
「……だって、親じゃないので」

 小皿に取り分けた半分のケーキを迅の前に置いて、月子は苦笑している。恋人の欲目にすれば、なんて軽口は、おいそれと口にはできなかった。
「あ、」
 と、月子が声を漏らした。
「どうしたの?」
 問いかけへの返事はなく、月子が少し身を乗り出す。すっ、とその手が迅の頭に伸びる。さらり、と髪を掠めた指先が、ぞくりと背筋を震わせる。
「月子、さん?」
 髪の表面をただ撫でたような指先が、それでもすこしつめたいような気がして。
「……ああ、ごめんなさい。頭に、桜のはなびらがついていて。とれましたよ」
 微笑みを浮かべた月子が、桜の花弁を迅に見せる。ちいさなそれはここへ向かう途中に迅の頭についたんだろう、ということは、わかるけれど。これは、読み逃していた。
「あり、がと」
 髪に触れた指先のつめたさまでは、迅も知らなかったものだ。不意打ちのそれにじわじわと頬があつくなるのを察して、口元を手で覆う。
「あ、えっと、私も昔、頭に花びらがついているのに気づかないまま祖父の前に出たことがあってですね」
 どうやら照れていることはばれたようだが、別にそこに照れているわけではないのだ。ただ、あなたの指先が頭をそっと撫でていったことに――ただそれだけのことに。
 それを告げることは、ちょっとまだ、むりだけど。
「……ケーキ、いただきます」
「――はい、どうぞ」
 熱を散らすように息を吐いて、それからフォークを持ってケーキをすこしとる。にこりと笑った月子が、いつものようにきらきらときらめく蒼みがかった瞳を向けた。反応を伺っているその顔が、迅のひとことで、得意げな笑みに染まるのを見るのが、好きだ。
 口の中に放り込めば、クリームがあまくほどけて、スポンジがしゅわりととける。イチゴの甘酸っぱさがほどよく、二口目がすぐにほしくなる。
「美味しいよ」
 いっとう心をこめて告げれば、月子がふわりと笑った。
「お誕生日おめでとうの気持ちを、たくさん込めておいたので。……だから今日、迅くんとこうして会えて、とってもうれしいです」
 この人は、どれだけ迅をよわくすれば気がすむのだろう。一生敵わないと、そんなことを思ったけれど、それも、しあわせだった。


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