手折るべくは白菊


 古い屋敷は数多の菊に彩られていた。白、萌黄、薄紫に紅と蘇芳。ぴんと背筋を伸ばした菊花は暑熱の残る夜風にゆられ薫り立つ。菊の香りは好きではない。鯨幕が脳裡に翻る。掠めたそれに息が詰まった。閉塞感はなにも花のせいばかりではないけれど。
 磨きあげられた縁側がかすかに鳴る。この音を耳にするのも随分と久しぶりだ。角を曲がったところで、漸く探していたひとを見つける。近付いていけば向こうも気付いたらしい。艶やかな着物の裾を優美に捌いて歩いてくる。
「お待たせ」
 やっほぅ、と片手を振れば、彼女は柔和な瞳をまあるくして五条を見つめた。結いあげた髪には白菊を模した飾りが一輪挿してある。
「悟さん、いらしたんですか?」
 まあ。と、彼女はくちびるに爪先を添えた。サングラスの奥できょとりと目をまたたく。彼女はいつもそこらの草花の名を紡ぐように軽い調子で『五条さん』と呼ぶ。ほんの一呼吸だけ胸がさわいで、それからすぐに気付いた。この場所ではそう呼ぶほかない。
「きみが言ったんだろ」
 ――わたしを魔窟でひとりにするおつもりですか、って。
 つい、と耳元にくちびるを寄せて声をひそませる。戯れめいた吐息に、七番目の許嫁は「そうですけれど」と澄んだ顔のまま応えた。
 羞らいのひとつも見せない彼女は夜露ほども五条を男性として意識していない。いつものことだった。許嫁としてはどうかと思うがひとのことは言えないだろう。五条だって彼女をそういう目で見ていない。
「でもまさか、来ていただけるとは。だってここ、ご実家じゃありませんか」
 心底おどろいた、という顔をするのでわらった。呼吸のたびに噎せるような菊の香りが肺を満たしていくが、この顔が見れたなら多少は来てよかったとも思う。嫋やかに神経が焼き切れている彼女はたいていのことに動じない。
 ――菊の節会に招かれました。
 その連絡を受けたときはまだ夏休みの真っ最中だった。あ、そう。とだけ応えた五条に、返されたのが『魔窟』だ。責めるような口調ではなく、冗談めかした声音だった。仮にも未来の義実家に対して随分な言い様だが否定はしない。
 がんばって。他人事のように告げた五条に『がんばります。暑い日が続きますのでご自愛くださいな』と電話を切った彼女はただ義務として報告したのだろう。重陽の宴に出席するように求める催促は本家からしかなかった。
「もう宴もほとんどおひらきですよ」
 なにしにきたんです? 首を傾げた彼女のひたいを指ではじく。せっかく来てあげたのになんだその態度は。頼まれたわけではないけれど。――じゃあやっぱりなにしにきたんだろう、と思わないでもなかった。
「いたいですよ」
 咎めるような目をした彼女が華奢な手でひたいを覆った。ちらりと見えたそこはかすかに赤くなっている。
「平日だもん。遅くなるに決まってるでしょ。高専教師は授業に宿題チェックに行きがけ呪霊祓いに色々あるんだよ」
「そんな真っ当に教師をされていたんですか?」
「してるよ。きみ、僕をなんだと思ってンの」
 まあしてないけど。心のなかで舌を出し、それを気取られないうちに彼女の手をとった。その手がやわらかなことを知っているが、いまはひやりと冷たく荒れている。
「五条さん?」
 咄嗟に出たらしい呼び名はいつもと同じだ。この家でそう呼び掛ければいったい何人が振り向くだろう。あるいは――力のない女の声に応えるものはどれだけ。
「おひらきたってクソジジイどもはまだいるんだろ? 僕らが揃ってるの見せとけばしばらく静かになる」
 はい、笑顔。きゅ、と空いている片手で薄い頰をつまんで引っ張れば、すこしだけ眉が寄る。
「化粧が落ちます」
「チークの代わりだよ」
 告げはしなかったけれどひどい顔だった。ひとりでこの家の敷居を跨いだ彼女に降りかかったものの重さは推し量ることしかできない。もちろんこうなることはわかっていた。わかっていて頷いたのは五条だし、なによりも彼女だ。
「片頬だけですか」
 彼女がいたずらっぽく笑ったので、五条はその頰にもういちど指を滑らせた。


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