七番目の許嫁

 許嫁が死んだ、と報せが届いたのはひと仕事終えた朝方だった。
 ――やっぱりね。嘆息にも似た言葉が喉を突いたが、噤むだけの分別はある。
「残念です」
 滲んだ声が電話の向こうで切々と何かを語っていた。洗濯機に服を放り込みながらことさら殊勝に相槌を打つ。六度も繰り返せば慣れたものだった。

 一人目は交通事故だった。確か人並みに悲しんだと思う。まだ幼いころで死というものも覚束なかったが、きょうだいのように過ごした彼女と会えなくなるのが単純に残念だった。
 二人目は転落死、これも事故と処理された。なにか薄っすらとした予感があった。これは――そういうものなんじゃないか、とか。
 三人目は怪死だった。ひとりきりの部屋のなかでひしゃげていたらしい。年上の彼女は呪術師として働いていた。
 四人目は海で溺れ死んだ。自殺だったのか事故だったのかは判然としない。
 五人目は、前の四人の顛末を知っていたので向こうの方から関わってこなかった。それが気安くて、わりと気に入っていたのだけれど、病を患い気をやって死んだ。惜しいとは思わなかった。やっぱりなぁ、と棺を見つめた。
 そして六人目。周りももう諦めればいいのに。浮かぶのはそんな感想だけだった。
 はいはい知ってました、そうなるんでしょ。みたいな。
 葬式に出るのも四人目あたりから煩わしかった。別に自分で求めた女たちではない。それでもどうやら独り身は許されないらしかった。

「新しいひととの顔合わせの日なんですが」
 と、その連絡を受けたときは一寸わらってしまった。マジか、とむしろ驚きさえした。ここまで人が死んでなお諦められないのか――五条悟という男の遺伝子は。
 つくづく呪術師ってのはクソだなと思いながら、「いつでもいいよ」と了承を返した。
 だって「六人のこと知ってるの? その子」と訊けば「はい」と応じられたのだ。六人の女が死んでなお許嫁になろうという、その女に僅かばかりの興味が湧いた。正しく好奇心で、ともすれば不謹慎でもある。それでもいいだろう。お互い様だ。
 断る方が向こうのためだろうが、断ったところで次の女が添えられるだけだ。添い遂げたい女がいればともかく、現状では断り続ける理由も暇もない。ひとまず許嫁が決まりさえすれば、煩わしい連絡事がひとつ減る。呪術師は忙しく、優先順位はシビアだ。

 七番目の彼女も死ぬだろうか。ちらりと考える。それもベッドに寝転べば忘れた。
 誤解を恐れず言えば、人が死ぬのは悲しい。違えようもなく悲しいことだ。それはこの世の真実で、故に許嫁だろうとそうでなかろうと悲しいものは悲しいのである。ただそれだけの悲しさ、だった。
 彼女たちの死を他人の死以上に悲しいとは思えなかった。そんな男の妻となることの方が死よりもよほど不幸かも知れない。けれど――自分で求めた女でもない。この人生に伴侶は必要なく、求めるのは地獄を往く同胞だけだ。


 二人目から六人目までは料亭での顔合わせだったが、七番目の許嫁は街中の喫茶店を指定した。付き添いは仲人ひとり。電話口でそれを聞いたときはサングラスの奥で片眉をあげた。これまで女たちと、どうやら一寸違うらしい。
 そういうことならと、五条はサングラスといつもの服で喫茶店へ向かった。休日のゴミ捨てのときと格好も気分も変わらない。
 扉を開けばドアベルが鳴る。音楽と人の声が適度に混ざり合う落ち着いた雰囲気だった。古き良き純喫茶というていで、煙草の香りが鼻を掠める。それぞれのテーブルは高めのパーテーションで仕切られ、密談にはもってこいだった。今から行うのは見合いだが、それも一種の密談かも知れない。
「悟様」
 老いた女の声が耳を撫でた。禁煙席にまで流れてくる煙に眉をわずかにひそめ、老女は五条に向かって歩いてくる。初めて見る顔だった。今までの仲人のなかでも飛び抜けて年を重ねている。見合いのたびに仲人が変わるのはいつものことだ。大元にいる存在は同じなのだから変えるだけ無駄だと思うのだが、女たちにとってそうすることは重要なのだろう。
 手のひらで制して、こちらがそっちに行くと伝えれば、老女は踵を返して店の最奥へ歩く。着物姿が店の様子と相まって時代錯誤だ。気難しげに結ばれた帯と同様に愛想は少ない。
 老女が立ち止まり、改めて出迎えるように向き直った。四人掛けのテーブルにひとり、女が座っている。サングラスのくぐもった視界の先で、女は立ち上がった。流れるような美しい所作だ。
「はじめまして」
 言葉は殆ど同時だった。
「五条悟です」
 一応の礼儀として名乗り、サングラスのなかで女を見る。七番目の許嫁も、やはり、初めて見る顔だった。印象を一言で済ませるなら良家のお嬢さんといったところか。見目は今までの許嫁たちに比べればいくらか劣るが、悪くはない。控えめながら嫋やかな華があった。
「お会いできて光栄です、五条さん」
「こちらこそ」
 蜜の混じったようなやわらかな黒髪とブラウンに寄った瞳。年頃の女らしくまろみを帯びた輪郭に人好きのする笑みが映える。ほんのりと色づいたくちびるが穏やかな声で「みょうじなまえです」と名乗る。苗字には聞き覚えがある。御三家の分家筋のそのまた親戚だったような。釣書は当然見ていなかった。
「どうぞお座りください」
 老女に促されて女の対面に座る。すぐにお冷やを持ってきた店員にアイスコーヒーを注文し、それを待って老女が口を開いた。

 仲人としての役目に忠実な老女が語るに曰く、女は禪院の遠縁の呪具師の家系に生まれた。家督を継いだ兄は呪具師としてそこそこの評価を受けているようだ。年は三つ下。趣味はお琴と生け花。紹介された学歴からして良家育ちには違いないが、これまでの許嫁と比べれば血筋でも劣っている。

「きみも作るの? 呪具」
 老女の声に被せて問う。サングラスは視線を遮るが、老女ではなく女に問うたのは伝わったはずだ。
「いいえ。才に恵まれませんでした」
 柔和な笑みが応えた。そこに卑屈な響きは少しもない。これまでの許嫁たちとはやはり違う。ふうん、と相槌を返しながら老女を見る。隙のない面差しに意図は読めなかった。
「橘さん」
 女が穏やかな声で老女を呼んだ。
「あとはわたしからお話させていただきますから」
 にこりと笑みを浮かべ、何か言いかけた老女を押し留める。五条の紹介は不要らしい。こちらは女を知らないが、女はこちらを知っている。それだけがいつもの見合いと同じだった。
「よろしいのですか」
 老女が感情の薄い声で問う。職務を全うしようという生真面目さだけが滲んでいた。
「はい」
 女は無垢に笑みを重ねる。
「あの有名な台詞を聞いてみたいのです」
 心からそう思っているのかはわからない。本当に望んでいるのなら喫茶店ではなく料亭を指定して、もっと『いかにも』な見合いをするだろう。
 老女に視線を向けられたので、構わないと頷く。しばらくの沈黙があった。
「あとは若いおふたりで」
 囁いたのは老女だ。女は「ありがとうございます」と両手を合わせて笑う。
 席を立った老女がどこへ行くのだろうと目で追えば、からんとドアベルを鳴らして外へ出て行く。ここまで手放しにされたのは初めてだった。

「ふたりきりですね」
 楽しげに呟き、女はメニューを開いて五条に向ける。
「なにか召し上がりますか」
「きみは?」
「ここはプリンケーキが美味しいですよ」
 なるほど、メニューの端には珍しい三角形のプリンが載っている。「じゃあそれで」ざっと眺めてから言えば、女は心得たように頷き、店員を呼んだ。控えていた優男風の店員が近付いてくる。
「プリンケーキふたつ、チーズケーキをひとつ」
 しれっと自分だけチーズケーキを頼み、女はにこりと笑った。アイスコーヒーの氷が溶けてからりと崩れる。その存在を思い出して口をつければ、ちょっとびっくりするくらい美味しかった。目の前で女が得意そうに目を細める。華奢な体つきも相まって、所作のひとつひとつがどこまでも優美で柔和だった。
「聞いてるんだっけ」
 店員が十分に離れるのを待って、五条から言った。女は不思議そうな顔になって小首を傾げる。
「何をですか?」
「前の人たちのこと」
「そのことでしたら、はい」
 あっさりと頷き、それから物憂げな顔になる。
「お悔やみ申し上げます」
 真面目な声色だった。自分がそれほど悔やんでいないものを他人に真摯に悔やまれると反応に困る。
「……よく許嫁になろうと思ったね」
「なろうと思ったわけではありませんよ」
 一寸だけ眉を寄せた女は、やはり家の圧力に負けたのだろうか。ほんの少し面白くないと思って、何かを期待していた自分に気付く。座りの悪さを誤魔化すように大仰に手を振った。
「ぶっちゃけ、きみが選ばれた理由は?」
「お聞きになっていませんか?」
「特に何も。今までの許嫁なら、いくらか予想はできたんだけど」
「あぁ――そうですね。わたしだと、どこにメリットがあるのかわかりにくいですね」
 お金があるわけではないですし、美しいわけでもありません。それから強くもない。指折り数えて微笑み、「それでも選ばれた理由、気になりますか?」と女は首を傾けた。
「まあ、ちょっとだけ?」
「ちょっとですか」
「ご不満?」
「いいえ。でも、そうですね。五条さんだけ知らないというのは不誠実ですから、もちろんお話させていただきますよ」
 でもその前に。
 女が顔をあげて五条の向こう――カウンター側を見る。ちょうど店員がプリンとチーズケーキを運んできたところだった。ホールを切り分けた三角形のプリンは見るからに滑らかで、甘いにおいと焦がしキャラメルが滴る。
「ありがとうございます」
 と、女は律儀に礼を告げる。店員が締まりのない笑みで応えた。自分は美しいわけではない、と先ほど彼女は言ったが、少なくともあの店員にとってはそうではないだろう。
 名残惜しげに離れていくのをふたりして見送り、それから向き直った。
「わたし、死なないんです」
 スプーンでプリンを小突きながら、女は言った。天気の話でもするように。プリンがふるりとゆれる。ひとくちすくって食べ、ほわりと頰を緩ませた女が「おいしい」としみじみ呟いた。
「……食べませんか?」
 無垢に問われ、スプーンを手にとる。ひんやりと冷たかった。大きく分けたプリンを口に放り込む。固めなのに滑らかで、濃厚なカスタードが広がる。ふたくちめを食べ、女は笑った。やはり嫋やかに。
「許嫁が死ぬ男に、死なない女を宛てがってみようという――ほんとうに笑っちゃうくらい単純ですよね」
 ね、と同意を求められても。五条はスプーンをかしりと齧った。
「死なないっていうと?」
 もしかしたら釣書に書いてあったのだろうか。今度ばかりは読んでおけばよかったかも、次はそうしよう。いや女が死なないなら次はない。
「不老不死、というわけではないのですが、悪運が強いと言いましょうか……」
 女は惑うように視線を漂わせ、スプーンを置いてフォークをとる。チーズケーキを食べるらしい。
「禪院本家の方々は」
 ぱくりと食べて、女は微笑んだまま告げた。
「これもひとつの天与呪縛であろうか、と仰いました」
 この春から高専に入ってくる少女が頭を過ぎった。目の前の彼女とはあまりにもタイプが異なるが、五条を前にひとつの照れも恥じらいも臆する様子もないところだけは、少し似ている。
「……なるほどねえ」
 才に恵まれなかったと、女は言っていた。

 曰く、生まれ持つはずだった才と力の代わりに――女はひとつの天命を得た。
 歩いていたところにトラックが突っ込めばたまたま車体の隙間に入って無傷だった。鉄骨が落ちてきたときはその数メートル手前で立ち止まっていた。海で溺れたかと思えば近くにライフセーバーがいた。極め付けは地震だという。家の蔵――呪具と化したあらゆる刃物が揺れとともに倒れ込んできても、彼女には擦り傷ひとつなかった。
 一つひとつは偶然と片付けられても、塵も積もれば運命だ。丁度、五条の許嫁たちと同じに。

「バカみたいに単純な話だね」
 今度こそ同意を返せば女は柔和な笑みを深めて頷いた。
「ええ、ほんとうに」
「でもそれで僕の許嫁になるっていうのは、随分と自信をお持ちのようで」
「いいえ、そんな。五分五分と思っておりますよ」
「勝算がない勝負に出た理由は?」
 アイスコーヒーに口付けて反応を伺う。悩むように視線を漂わせたが、相応しい言葉を探しただけだろう。その証拠に彼女はすぐに口を開いた。
「勝負せざるを得なくなったというのはありますが――そうですね、」
 女は笑っている。屈託なく。何度も死にかけ、それ故にまたも死に近付いていると知りながら。
「どちらに転ぶか知りたくなったから、でしょうか」
 笑みをたたえたままそう言い切り、「気になりますよね?」と小首を傾げて同意を求める。
「ゴジラ対モスラみたいな」
「いやそれは違うでしょ」
 ちがいますか、と残念そうに呟くので笑った。くつくつと喉の奥から込み上げてくる。
 彼女は呪術師ではない。力もなく、その佇まいは限りなく一般人だが――今までの六人よりも、よほど、だ。
「でも、まあ、死ぬつもりはあるってわけだ」
「その時が来たならば」
「僕はあんまり出来た伴侶にはならないと思うけど、それでも?」
「対価は頂いていますから、五条さんに求める気はありませんよ。ご安心ください」
「ははーん、きみは五条に買われたわけだ」
「見方によっては、五条さんがマイナス三千万円で売られたとも言えますね」
「意外と安いね」
「前金ですから」
 金のためか、と軽んじる気持ちにはなれなかった。彼女の本心はもう聞いている。『どちらに転ぶか知りたくなった』――それは正しく好奇心だ。不謹慎だが、お互い様である。
「それじゃ、君には不満も憂いもないわけだ」
「そうですね。五条さんの合意を得て成立となれば万々歳です」
「オーケー、君に決めた」
「そんなにあっさりと、いいんですか?」
「いいよ。僕はちょっと、君のことが気に入ってきた」
 愛には程遠く、まして恋にもならないけれど。
「これからよろしくね、許嫁さん」
「ええ、どうか末永く」
 テーブル越しに手を重ねる。彼女の指は細く見目のままに華奢だった。この手を払ってその首を締めれば容易く殺せそうなほどに嫋やかな彼女が、今から五条の許嫁だ。
 七番目の許嫁は死なないらしい。それが嘘か真か、偶然ではなくまさに天命なのか、それを知る術はなく――故に、興味だけがあった。


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